鹿島美術研究 年報第9号
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⑬ 近世絵画における洋風表現の受容と日本化1930年に大谷光瑞師らによって唐五代の越州窯の窯址探索につづいて杭州付近でさらけて浙江省を中心にさかんに製作された。この古越磁が注目されるようになったのは,に古い青磁の窯址が発見されてからである。1936年には紹興付近での道路工事により多数の古墳が破壊され,出土品が市場にでまわりこの古越磁の存在が注目をあつめた。三国,西晋に本格的な発展を始めた青磁は,漢代以来のいわゆる明器的な性格を強くもち,実用的な機能はあまりなかった。日常的な器皿としての陶磁器の発達は遅れていた。これらの南北朝以前の越州窯青磁が脚光をあびるようになったのは,作品が市場にでまわり,紀年銘のある遺品が発見され,また多数の年代の明らかな古墳が調査されるようになってからである。最近ようやく,資料が蓄積され,不十分ながらも越州窯系青磁の分布や青磁の出現についてなどの考察が可能となってきた。しかしながら,例えば,三国から南朝のシンボル的な明器である神亭壺にしても在銘のものを基準にして,様式的な展開の系譜を探ろうとしても,その全貌は明らかになっていない。また虎子や天鶏壺,青磁の羊,獅子などの動物形,熊形の燭台,蛙形の水滴など多数製作され,発掘報告もなされているか,その造形性に関しての考察はまだなされていない。本研究では古越磁研究の考古学的段階から実際の作品に即した美術史的な考察を加え,古越磁の典型的な作風がどのように形成されていったかをさぐり,初期青磁の在り方を明らかにしようとするものである。研究者:三重県立美術館学芸員山口泰弘近世の日本人のヨーロッパ絵画の表現への理解は,きわめて浅薄なものであったといわれている。彼らがそこから学んだものは,表現の背後に厳然とある思想ではなく,陰影法・遠近法という手法であったことはすでにはやくから指摘されているが,これは逆にみれば,日本の近世が伝統と芸術性という点である種の到達点に達していたことを意味している。陰影法や透視遠近法などヨーロッパ絵画の表現法は,日本人に従来なかったあたらしい視覚表現の可能性を提示してみせた。それらに対して日本の画家はさまざまな対応の仕方をみせている。もっとも直裁的な影靱を受けて成立したのがいわゆる洋風画であるが,そのほかにも円山応挙・池大雅あるいは浮世絵師たちの対応の仕方とその-366

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