⑮ 10世紀彫刻の動向についての研究も出来ない。② 価値この技法の解明は,単に古代の技術解明に終るものではない。古代人の英知を集めて開発された大発明をしっかりと見直し,さらに今後のわが国の漆芸にも再び応用され,ますますその発展に供し,またそのすぐれた利点をわれわれも日常生活に於て受したいものであると考えている。③ 構想理由等まだ,素地構造,細部の技術が解明されないものとは言いなから,この素地構造の素晴らしさ,優秀さの故にまた他の類品と区別したいが故に,私はかつて,この様な素地構造のものを「巻胎」と呼んでは如何だろうかと問い,その後こう呼ぶようにした。最近は,この言葉に対する支持と学会の認識も得られるようになった。わが国でもその後2例(昭和60年,平成元年)の発掘例があり,すべて「巻胎」とう言業で報告されている。研究者:神奈川県立金沢文庫学芸員日本彫刻史における十世紀に対する従来の評価は,九世紀以米の一木造の伝統の継承とともにその最感が徐々に減退して和らかくなって行ったとみなす消極的な意見が主流で,比較的作品の量に恵まれているにも拘らず,本格的に個々の作品について,これをとりあげ研究されることは少なかったと言えよう。しかしながら,その様な趨勢の中にあって典型となり得た作品の中には前代の伝統を未だ引きながらも,その一方で来たるべき十一世紀彫刻にみる和様化をいちはやく予見する様な作例が存在していたことは見逃すことができない。その様な例として醍醐寺如意輪観音像(霊宝館安置)の存在に既に注意を促しておいた。この醍醐寺如意輪観音像は一木造の伝統を受け継ぎながらも,その量感のとらえ方については旧来から転換して適度に抑えられるとともに像全体のバランスや動勢を主眼に置いて造像がなされた注目すべき十世紀初頭の作例とみなし得ることができる。籾,本調査研究の目的は十世紀初頭において次代を予見し得る様な作風を有するこの醍醐寺如意輪観音像の作風がその後,如何に継承と展開をして行ったかについて,田徹英-375-
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