鹿島美術研究 年報第9号
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⑳ 芹沢娃介に関する研究する必要がある。つまり,宋代済色山水画の研究は,日・中の絵画史を考察する上で重要な意義を持つものと考えられる。北宋末・南宋初の着色山水画の復興は,単なる唐代着色山水画の繰り返しではなく,五代北宋時代の水墨山水画の急速な展開を受けた,変容を遂げた「宋代」のそれであることは確かである。その間,水墨のグラディションによる細緻な遠近表現が可能になり,いかなる時季の,いかなる時間かを示す時空の演出法は長足の進歩を遂げた。それ故,北宋末・南宋初の滸色山水圃においては,山水画の時代である「宋」と,その間を通じて変容しつつも継承された「唐」とか,山水画における基本的な「華北」「江南」という南北の図式と微妙に重なりあい,交錯しながら,複雑に絡み合っているのである。この古くて新しい「済色山水画」は,同時代の論者によってもその範疇か一定しないのであるか,本研究では,まず,「着色山水圃」についての基本的な整理を行い,その問題を「水墨」と「着色」という最も基本的なI廿]題に辺元した上で,現存作品の実査に基づきなから,その多様性.について,いかなる営為が働き得たかを検討していこうというものである。但し,宋代の現存作品は必ずしも恵まれているわけではないため,本研究では特に日本のやまと絵をその比較材料として柏極的に利用していきたい。内でも,他の顔料とは明らかに異質な金・銀という素材の使用については,日・中の絵画の共通項及び差異を考える上で重要な指標となり得よう。研究者:東北福祉大学芹沢鈍介美術工芸館助教授濱田淑芹沢鮭介か型染の道に入ったのは柳宗悦との出会い,そして沖縄の紅型に感動したことだと自筆年譜に記している。彼にとっての柳宗悦は師として確かに大きな存在であったか,それ故に民芸作家芹沢娃介としての評価がなされ,民芸思想の範ちゅうでの論考が主流であった。美術史研究の手法で芹沢を把え,日本近代美術史上如何なる役割りを果たしたかの位置づけをすることが第一である。そして第二に,没後7年という新しい作家をとり上げる理由は芹沢が日本の芸術家として稀有な存在であるとの認識による。「生活美のデザイナー」として創造した作品は膨大である。屏風・額絵,着物,帯,-379-

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