く1〉。10月13日(パリ,母・妻宛)「毎日勉強シテリマス」<1〉。8月4日(パリ,母・妻宛)「自分ノ思フ事ガ毎日毎日勉強出来るので実ニウレシイ」9月「志願書を作り河上謹ー先生の紹介を得て住友家の給費を請ひ其の許諾を受けたり。乃ちルーブルの美術館に古希脹の彫刻を窺生しクールトア,コラン,ムッ力氏等にデッサンを學びつ、ありしが一日パンテオンに遊び其の壁豊を見てション,ポール,ローランス豊伯の巨腕に驚き直ちに其の門に走りて其の薫育に沿すること、なりこ、に驚伯と終世師弟の情誼を結べりこれ賓に千九百一年九月(明治三十四年)にして余が年二十八の時なり」<3〉。9月23日(パリ,妻宛)「此頃向ふニカ年程欧州二止まル事ニナッタ」。住所はパリ510月8日(パリ,母・妻宛)「毎日勉強致シテ居ル」<1〉。住所はソムラール街20番地10月21日(パリ,母・妻宛)「裸体写生二大勉強イソカシサ限リナシ」〈1〉。11月20日五十嵐久雄氏によれば,「ジュリアン校,J.P,ローランスの教室に,日本人画家で最初に名前が出てくるのは鹿子木孟郎」であり,アカデミー・ジmerard) <1〉。「杉浦重剛を通じて鹿子木を知ってゐた河上謹20 rue du Sommerard。帰宅相延はし度存候委しクハ近々二申上候得共帰宅相延はし候事ハ私二とり実二此上ナキ幸福の事二候得共御安心下度候」)<1〉。区のソムラール街20番地(HotelLe Loire, 20 rue du Som-ーから,住友家のために五千圃を以て名驚敷貼を買入れる斡旋を依頼して来た。鹿子木は,五千圃で三四枚に過ぎぬ綸を求めるより,その金を留学費として自分に与へられるならば,三年間勉学して或は名驚の模写を作し或は自作に依って,住友家の壁上を幾らでも飾ることが出来る,その方が日本美術の上にも住友家にとっても有益であろうと考へるから,柾げてこの願を聴許願ひたいといふことを,誠心を籠め長文に認めて返書とした。自己の鑑賞或は装飾のためのみでなく我國洋畿の発展を願ってゐた春翠は,その意を賞でて河上に留学支弁のことを伝へた」〈2〉。42 -
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