く1〉く2〉ュリアン学費納入簿に最初に記載された日付は,1901年11月20日で,そのいう<4〉。住所はパリ5区,パンテオンに近いロモン街4番地と思われる1月1日公使館を訪れ公使に挨拶し,夜には,パリ米訪中の渡辺子爵を招待した新年祝賀日本人会に出席する(1月3日パリ,母,妻宛)<1〉。1月2日アカデミー・ジュリアンに行く。午後,語学教師宅を訪問し挨拶(1月3日パリ,母・妻宛)。1月3日(パリ,母・妻宛)午前中,アカデミー・ジュリアンに行き,午後ラファエーランス教室コンクールで,「デッサン」部門佳作になっているという(3点)第一等ノ画ガ出米テ大二教師二管メラレ本月ノ学校展覧会二出品スル筈夕」)<1〉2月10日日本はロシアに宣戦布告。日露戦争が勃発し,帰国を余儀なくされる。4月帰国。【文献】山梨絵『住友春翠』,「住友春翠」編簗委員会・初版編築発行・1955年(昭和30),芳泉会・再版編築発行・1975年(昭和50)。鹿子木孟郎述『自叙略傭回顧五十年』,私家版,1924年(大正13)。後1903年6月8日,1906年4月9日,1907年1月24日の日付が見られると(4 rue Lhomond)。1902年(明治35/28歳)10月高階秀爾氏によると,1902年10月,胞子木孟郎はアカデミー・ジュリアンのロく6〉。山梨絵美子女史の研究査料からも,その事実は確認出来る(「前週ハ級中(10月9日パリ,母,妻宛)。1904年(明治37/30歳)1989■1990年。く3〉ル・コランを訪問(「本日ハ午前中学校二行キ午后旧教師コラン氏ヲ訪ヒ今帰宅明日ハ旧教師クールトアー氏ヲ訪ヒ五日ニハ新教師ローランス氏ヲ訪フ筈ナリ」)く1〉。「鹿子木孟郎滞欧-43 -(一)〜口」(研究資料),『美術研究』344■346.
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