く7〉五十嵐久雄「アカデミー・ジュリアンに学ぶ,日本人留学生の記録から」,『緑山美術館報』第11号,1990年(平成2)7月。写生帳『欧州みやげ』より高階秀爾「アカデミー・ジュリアンと日本人留学生」,『美術史論叢』(東京大学文学部美術史研究室紀要)7, 1991年(平成3)。写生帳『米国みやげ』よりジャン=ポール・ローランス年譜南フランスのトゥールーズに近い小村フールクヴォーFourquevauxに生まれる。その少年時代は後年,友人の作家フェルディナン・ファーブルにより記述される(『ある画家の物語』1878年Ferdinand Fabre, Le roman d'un peintre, Paris, 1878.)。家は非常に貧しく,幼い頃,イタリア人の画家たちが村の教会に装飾画を描いているのを見て,画家を志すく1〉。8歳で母を喪い,「その後,村の教会を装飾しにやってきた旅廻りのイタリア人画師アントニオ・ブッカフェラータに魅せられ」,彼の身辺の雑用をしながら,13歳の時,ブッカフェラータが《聖アンナの死》のモデルとして,亡くなった鶏屋オルテットの内儀を写生するのに立ち合う。画師は少年ローランスに蠍燭を持たせ死者をデッサンした。ローランスは終生その光景を忘れなかったく2〉。トゥールーズ美術学校に入学。ヴァランサンWillemsens(1806-1859)に師事,ヴァランサンの娘マドレーヌと交際するが,師に結婚を反対される<1〉。また同校ではコ《エウリュアレの死》Mortd'Euryale (トゥールーズ美術学校蔵)により,美術学校く4〉く5〉く6〉1838年1854年(16歳)-Cotにも師事く3〉。1860年(22歳)-44 -Jean-Paul LAURENS (1838-1921)
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