く3〉。〈3〉。ポール・マンツによるサロン評がある「PaulMantz, Salon de 1872, Gazette 1863年(25歳)1864年(26歳)1867年(29歳)Supper at Beaucaireを題材にする)く3〉。1869年(31歳)1872年(34歳)Pape Formose et Etienne VII) (70年制作,72年サロン,現・ナント美術館),《アンDue d'Enghien,現・アランソン美術館蔵)をサロンに出品,1等質牌を獲得する<1〉des Beaux-Arts.)。政府からマサッチオの模写を依頼されてイタリアに数力月滞在く1〉。1874年(36歳)1875年(37歳)の大賞を受賞し3年間の奨学金を得る。ローマ大賞に挑戦するため,パリに出てレオン・コニエとトゥールーズ出身のビダBidaに師事く1〉。《大カトーの死》Mortde Caton d'Utiqueがサロンに落選,同作品は落選展に出品される<1〉。ローマ大質のコンクールに落ちる。この年はマイアールが受賞く1〉。この頃《ティベリウスの死》TheDeath of Tiberiusや風俗画《舞踏会の後で》Afterthe Ballも制作,また放浪画家とともに訪れた,アルプス地方の村々の教会に聖人を描いて暮らす百科事典編簗者ラルースの競技会で入選(ナポレオン伝から《ボーケールの晩害》Theサロン出品作《悪麿を治癒するイエス》Jesusguerissant un demoniaqueが3等質牌を獲得く1〉〉<3〉。マドレーヌの父ヴァランサンが死去し,ふたりは結婚する。翌年長男ポール=アルベール誕生(後に画家)。パリ市のいくつかの学校のデッサン教師となる<1〉。ローランスはアカデミー・デ・シャン=ゼリゼAcademiedes Champs-Elysees の教師としても登録されている(年不詳)く5〉。フォルモスス》LePape Formose《教皇フォルモススとステファヌス7世Leギアン公の死》Lamort du due d'Enghien(《アンギアン公の処刑》L'executiondu サロンで成功しレジオン・ドヌール5等勲章を受勲【1】【3】。74■75年パリのレジオン・ドヌール宮の天井画を制作く1〉。45 -
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