鹿島美術研究 年報第9号
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ませて重たげな八重の花をつけており,妙蓮寺の桜を写したもののように見え,左隻の山杉図も1に近似する図様を備え,かつ,宗宅の作例にしばしば見受けられる不規則に波うを配している。このように長谷川派が意匠性豊かな山水図を描いていたこと,とくに宗宅がこの種の山水図屏風の制作に携わっていたことが考えられる。同じく長谷川派の創意を感じることができる柳橋水車図や萩図などの金地屏風にも宗宅印のおされた作例があることを併せ考えれば,長谷川派内で宗宅が金地着色の屏風絵制作において重要な位置を占めていたことを推測できよう。そして妙蓮寺障壁画と筆致を似通わせる作例の存在は,元和から寛永初期にかけての等伯,宗宅亡きあとの長谷川派工房が活発な活動を続けていたことを教えてくれている。おそらく仕込絵の形でつくられる屏風の絵として,平明な山水図は柳橋水車図などとともに格好の主題であったはずである。そしてそれは長谷川派系の工房に限ったことではない。ほぼ同時期の狩野内膳系,あるいは雲谷派系の工房作例とみられるいくつかの山水図屏風にも上述の長谷川派作例との関連をみることができる。しかし,その後も長く屏風の主題として好まれた柳橋水車図とは対照的に,この種の山水図が継承されて拙かれていた時期はそれほど長くはなかったように思われる。柳橋水車図のように,そこはかとなく文学的な背景を感じさせ,詩情をよびこむ器としての機能が,この平明すぎる程平明な山水図には欠如していたことが,主題の命脈を保てなかった一因かもしれない。やがてこの山水図は杉に桜をまじえた一叢の木立へと解体されていったように思われる。そしてその木立は,長谷川派風の筆致を継承する匿名の絵師の誰袖図屏風などに,埋め草的なモチーフとしてかろうじてその姿をとどめている。以上,長谷川派の山水図を中心にその展開を追ったが,今後の課題として,個々の作例のより詳しい制作時期や筆者の検討と,そもそも1の山杉図屏風にみられる山水図がどのようなところから着想されたかを考えることが残されている。-52 -

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