鹿島美術研究 年報第9号
76/428

ても三重•朝熊山経ケ峰経塚から阿弥陀三諄米迎を線刻した平安後期の鏡像が発見であることが重要である。一例古墳出土とあるのも,経塚を造営する際に古墳の丘陵を利用することがあるようだから,経塚出土と考えてよかろう。それでは経塚と宝冠阿弥陀三諄像の間にはどの様な関係があったのだろうか。この関係を知る鍵は,長元4(1031)年10月,上東門院彰子が慈覚大師円仁の如法経に結縁して,自ら書写した法華経を比叙山横川の如法堂に埋納した際の願文(『門葉記』巻第79所収)にある。この願文で注目したいのは,「ワレノチノヨニ三界ヲイテテカナラス極楽浄土ニムマレテ,菩提ノ道ヲ修シテトクホトケニナリテ衆生ヲワタサム」という箇所である。ちなみにこの文の後には,「又浄土ニウマレテノチニハ,コノ経ニョセテ人ヲワタサム,弥勒ノ世ニモミッカラアヒテ,コノ経ヲモチテ人ヲワタサム」と続いている。ここに言う,まず浄土に往生して,それから修行して仏と成って衆生を救済するという考えについて,保坂三郎氏は,暴麓の『往生論註』などにみえ,中国浄土宗の核心をなす教義である,往相・還相の二廻向の考え方が我が国に踏襲されたものに他ならないと指摘されている(『経塚論考』)。極楽浄土に生まれて,修行して仏になるという内容は,二段階を要することであり,言うまでも無く第一段階の浄土に生まれる為には,弥陀の来迎があるわけである。この来迎がどの様にイメージされていたかは,多くの資料かあり,経塚においされていることはよく知られている。では,つぎのステップである浄土での修行に関してはどの様なイメージが持たれていたであろうか。ここでその具体的作例として注目されるのが,耕三寺の浄土曼荼羅刻出仏寵の表わしている世界ではないかと思われる。この仏寵は,宮殿があり,舞台で踊る菩薩,迦陵頻伽,奏楽の菩薩,池中に竜頭鶴首の船などが配されていることから,明かに浄土を表現している。そして,その宮殿の中心には宝冠阿弥陀三尊がおられ,その周りを十人の僧が巡るという常行三昧に似た光景が展開されているのである。まさに,ここで行なわれているのは,先の願文にあった浄土での修行の具体的イメージではなかっただろうか。このように,浄土での修行は宝冠阿弥陀三尊の下で行われると考えられることもあったとみられ,その姿と同様な宝冠阿弥陀三尊の小金銅仏が経塚から発見されることは,経塚造営に関係した人が浄土での修行を思って埋納したものではなかったかと考えられてくるのである。-54

元のページ  ../index.html#76

このブックを見る