鹿島美術研究 年報第9号
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以上が経塚から宝冠阿弥陀三雌小金銅仏が発見される理由と考えるが,最後に浄土での修行の結果,仏に成ることに留意しておきたい。このことは,現世ではなく浄土においてであるが,密教で五相成身観をおこなって自らが阿弥陀と成るという考え方と同じであり,ここで成仏した姿には浄土の主である宝冠阿弥陀仏が想定されていたのではなかろうか。前節の考察は小金銅仏の制作時期から11■12世紀のことであり,これ以降の展開については不明と言わざるを得ない。そこでこれを補う意味でも,上記の宝冠阿弥陀如来像の捉え方に関係すると予測される事例として,当麻寺の練供養で「宝冠阿弥陀」と報告されている小さな木像が登場することについて考察してみたい。練供養は,毎年5月14日に行われ,曼荼羅堂を弥陀の極楽浄土にみたて,娑婆堂を現世にみたてて,その間に来迎橋と1l乎ぶ棚橋を設けて,面を被った信者の扮する諸菩薩が,中将姫(木像)を迎えに曼荼羅堂から娑婆堂へと橋を設り,娑婆堂であらかじめ中将姫像の胎内に入れてあった,本稿で問題とする小さな木像を観音が蓮台に乗せて曼荼羅党に帰って行くという宗教行事である。この中将姫像の中に入っていた小像か,「宝冠阿弥陀如来像」と報告されているわけである(元興寺仏教民俗資料研究所『当麻寺民俗賽料緊急調査報告書』)。もしこの報告通りであるとすれば,これも宝冠阿弥陀像が本来の密教祉界を離れて,新たな展開を見せた事例となる。しかし,不十分ではあるが私の聞取りにおいては,現在この像を「宝冠阿弥陀如来」と呼ぶことは寺内では一般的でなく,「阿弥陀」・「観音」・「すくい仏」と呼ぶとの答えがあった。この中の「すくい仏」は,来迎に来る観音がそのしぐさから付けられた別称であるから除くとしても,どれか本米の名称なのかはっきりさすことは出来なかった。先の報告の典拠を確かめる調査は継続する必要があるが,とりあえず今はこの様に確かめる術はなく,ここでは像自体に戻って考察を続けておきたい。本像は先の報告書で既に紹介されているように,江戸時代の作と考えられ,髯を結んでその前に宝冠を付け,右肩を偏杉で裂い左肩から大衣を付け裳を着し,胸前で合掌する姿であるから,像容からすれば「阿弥陀」でも「宝冠阿弥陀」でも「観音」でもない。また,行事の流れからみて,本像ば帰来迎における往生者の姿であるから,絵画作品にみえる帰来迎の往生者と較べてみると,多くの作品では蓮華に55 -

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