鹿島美術研究 年報第9号
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産』(刊年・作者不明)や同様の『浮世絵づくし』(同右•おそらく仮題)が比較的早的に関連のものが繋がっているにすぎない,今後なお多数の作品を検討し検証していくことが課題であろう。判じ絵(物)の流行会話として謎をだす現在の「なぞなぞ」に近いものは,中世から文献に見られるが,これに絵を使うものは現在の所貞享4年刊の『女用訓蒙図彙』の衣裳の雛形に「御判じ物」として,判じ絵(物)を応用した意匠が幾つか見られる他,同年代の衣裳の雛形本に同様の物が散見される。また享保頃と思われる判じ絵(物)の本『判字物恵宝い時期の判じ絵資料と思われる。また『喜遊笑覧』の判じ物の記述などもこれを遡る例を見ないことから,判じ物として,絵を伴わないものは,以前からあったことと思われるが,絵で見せるいわゆる判じ絵は貞享から元禄ころが初出と考えられよう。これまでの例は,いずれも上方の出版であり,これが他の文化と同様,江戸に下りそこでの発達を見たのであろう。その後,山東京伝の京伝店の引札や喜多川歌麿のコマ絵,歌川豊国・国貞の同様の作品や草双子などにその例が見られる。通常,判じ絵として我々の頭に浮ぶのは,大判錦絵の大きさで,一枚に『00つくし』のような表題が冠せられた一枚ものの作品であろう。これは,一枚に複数の判じ絵が描かれており,表題で示されたさまざまなものを出題している。この種の作品について,現在まで30点余の資料を検証したが,すべてが嘉永から安政年間に集中している。年代不明のものを除けば,あとは明治以降の作品となる。この種の判じ絵は,天保以降に商品として制作され(あるいは欲求があったか),市場にでたと考えられる。判じ絵やその応用の諧請性に富んだ意匠などまだ追及せねばならない問題点が多く,本報告はその一部分のものであることはいうまでもない。特に判じ絵については本助成をきっかけに,江時の随筆・日記などから関連事項のデータベース化を進めているが,現在のところ傾向など報告できるほどデータの集梢がなされていない。今後も継続してこの作業は進めていく予定であり,ある程度の集積が成されて後にあらためて報告したいと思う。-60

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