はひろびろとした州浜を描き,簡単な社殿と松や芦の点描をおこなう。佐竹本「三十六歌仙絵巻」の巻頭を思わせ,静謡で格調の高いやまと絵山水となっている。光清は父の作風に飽きたらず,古画を学んで絵を修行したとされるがそのことを証明する作品であろう。幕末期の復古大和絵は土佐家以外の絵師が著名であるが,当主の光清も古様な画風を模索しているのは注目される。光武の作品と特徴幕末から明治にかけて京都には多くの画塾が存在したが,禁裏絵所預である土佐家はその中でも主導的な地位にあった。光武が他派の画家と積極的に交わったことは今日,塩川文麟,望月玉泉,森寛斎らとの寄り合い書きが多く認められることからも窺える。中でも特筆すべきは富岡鐵斎との親交で,これは鐵斎書状(土佐派絵画資料)や,鐵斎の旧蔵品書き付け(個人蔵)から明らかになる。恐らく明治十五年に京都府画学校が設立され,両者が出仕して後のことであろう。光武は「蓮池図」(西本願寺蔵)などの大作を描き,健筆ぶりを発揮している。復古的気運の中で,家柄と実力を兼ね備えた光武か,京都画壇のリーダー的な役割を果たしたのは当然の結果であった。今回,近世中・後期の土佐派の絵画資料を収集し,その画題や作風の変遷をある程度知ることができた。その成果は「土佐家粉本の人麿像と和歌神をめぐって」(『土佐派絵画資料目録(二)一肖像粉本(二)』),「近世土佐における源氏絵の展開」(『石山寺と源氏絵』)にも一部を発表している。今後も多くの作品が発見されると思われ,引き続き調査と収集を行っていきたいと考えている。-64 -
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