鹿島美術研究 年報第9号
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治30年に岡山県に生まれたこと,もと小学校教論であったこと,小野竹喬に師事した10月に竹喬美術館で開催された「新樹杜の画家たち展」で紹介され,同展図録に新たことなどが記されている。またこれとともに,国展や新樹社の出品目録から,第4回国展にく北海に沿う或村〉(大正13年)が,第6回国展にく外房風景〉(昭和2年)がそれぞれ入選し,第1回新樹杜展にく世田ヶ谷風景〉(昭和4年)を出品していることが判明していた。小野竹喬に師事した岡山県出身の国展の画家ということで,竹喬美術館ではかねてよりこの石橋謙吾に注目していた。本籍地すら確定できない状況であったか,平成2年8月,小野竹喬の遺族小野常正氏所蔵の小野竹喬宛書簡のなかから石橋謙吾のものを発見することができた。この書簡の差出人住所には「岡山県浅口郡黒崎村」と記されていた。これを機に,石橋謙吾の本籍が現在の倉敷市玉島黒崎であること,昭和7年11月10日35歳の若さで川崎市において亡くなっていることなどが判明した。また,遣族として甥の石橋直樹氏が神戸在住であることが判り,若干の作品資料と文献資料を所蔵していることが確認された。この後の調査で,作品ぐ故郷の風景〉(図1)が新たに見つかり,この作品は平成2年に知り得た略歴等とともに掲載されている。その後,この度の助成を得た調査で,石橋謙吾に関する詳細な経歴が判明し,また本制作・下絵・スケッチなど都合40点が新たに見つかり,さらには後援者に出した筒なども発見された。既出の図録の掲載内容と重複する点もあるが,ここに確認し得た経歴の要点を記すと次の通りである。明治30年2月12日に佐藤重太郎・里津の長男として岡山県浅口郡黒崎村1018番地に生まれる。後に石橋性を名乗る。明治44年頃,地元の桃源尋常小学校(現在廃校)高等科を卒業し,洋画家への道を志す。大正7年春,浅口郡徳本の尋常小学校教諭となるが,翌年の12月に退職する。この頃国画創作協会の設立に触発され,同郷の小野竹喬に師事して,日本画家になることを決意する。大正8年4月,母里津が一人娘であったため,石橋家の家督を継ぐ。大正9年の初め頃,京都に上り小野竹喬に入門して,同家の書生となる。同年5月,全国勧業博覧会に出品し入選する(作品名不明)。大正11年から13年にかけて,現在の島根県八束郡美保関町七類に居住して,制作活-66 -

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