正12年頃に,美保関古浦の数枚のスケッチをもとにして構想された<漁村〉(図2)は,はくえ動を行う。大正13年,第4回国展に〈北海に沿う或村〉を出品し入選する。大正15年,第5回国展に出品するが落選する。昭和2年,第6回国展にく外房風景〉を出品し入選する。昭和3年,大日本勧業博覧会にく牛の居る風景〉を出品し入選する。同年11月,国画創作協会の解散後に設立された新樹社の設立に参加して,会員となる。昭和4年,第1回新樹杜展にく抵田ヶ谷風景〉を出品する。この頃,洋画家を目指す弟縛患とともに上京,再び油彩画を始める。昭和7年11月10日,結核により現在の神奈川県川崎市高泊区で逝去。享年35歳。この石橋謙吾の短い一生,国展の設立を愈気に感じて国展に身を投じるか,すでに彼が登場した第4回展頃から陰りを見せ始め,やがて解散という運命を迎え,そして心機一転して設立した新樹杜も自然解散という結末に至り,さらに再び洋圃家として出発しようとしたにも拘らず夭逝してしまう。その悲閲的な歩みは,国展の若手圃家の多くか辿ったコースの典型ともいえるものである。大正12年前後,1,廿雲美保関の地において,困窮のなかで国展入選を目指して制作に励むさまは,郷里の後援者笠原常太郎氏への度重なる無心の書簡につぶさに見て取ることができる。そして何よりも,石橋謙吾において特筆すべきことは,国展解散のとき創立会員や会友がすでに失っていた国展設立時の純粋な制作謡欲を,最後まで持ち続けていたことである。その志の清らかさは,新樹杜設立声明書のコメントのなかにある,「日本圃が果たして逃避の芸術であり,もっと現代に生かされないものとすれば自分の性に合わないものである。今は過去に属するか,国屎諸作を思うとき,作品のよしあしは別として一歩進んだ現代の息吹を感じずには居られなかった。新樹杜はかつての国展に出品を続けて来た人達の集りである。国展の更生である以上はもっと生々とし,もっと栢極的に現代に働きかける処の之からの日本画がここから生れるのではなかろうか。」という言葉のなかにはっきりと示されている。この一途な思いゆえに,迎えた悲闊も大きかったといえる。さて,このたび発見された作品を見てみると,国展や新樹杜の出品作に該当する作品は見当たらないが,それらの習作や下絵とおぼしき作品を見出すことかできる。大-67 -
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