鹿島美術研究 年報第9号
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第4回国展のく北海に沿う或村〉のいわば下絵的な性格を持っていると推測される。北海とは,謙吾が当時住んでいた美保関七類周辺の日本海を指しているのではなかろうか。また,延々と弧状にのびていく海浜を描いた<砂浜〉(図3)は,明快な描線と微妙な陰影表現によって漁船や家屋をリアルにとらえており,第6回国展のく外房風景〉に関連する作品と考えられる。さらにまた,農婦と牛のいる田園風景を細緻な線と淡い色彩によって夢見るように描いた<田園風景〉(図4)は,大日本勧業博覧会に出品した<牛の居る風景〉の下絵と考えてよいものである。そして,樹林に包まれた学校の校舎を量感豊かに立体的にとらえた〈学校〉(図5)は,第1回新樹杜展の〈世田ヶ谷風景〉との関連を感じさせるものである。いずれの比定も十分な根拠を持たないが,関連するスケッチと対照してほぼ大過ないと考えられる。これら一連の習作や下絵を年代順に配列してみると,謙吾が師事した小野竹喬の作風変遷とかなり連動した作風の展開をしていることが判る。すでに紹介されている最も初期の作品と考えられる<故郷の風景〉は,竹喬の第2回国展出品作く夏の五箇山〉と対応するし,また<牛の居る風景〉は,竹喬の第4回国展出品作く春耕〉と第1回聖徳太子奉賛会展出品作く八瀬村頭〉の中間に位置する作品である。油絵具の替わりに群青や緑青,そして代諸などを多用した近代洋画的な風景表現から,イタリア中世のジオットのフレスコ画を志向するような,素朴ながらも三次元的空間や量感に満ちた人物表現を求める風景画に変異していく当時の竹喬に,謙吾は強い感化を受けている。ただし,竹喬が国展最後のく冬日帖〉あたりから文人画風になっていくのに対して,謙吾はキュビスム的な方向へと移ってゆく。この時点で,この師弟は日本画家と洋画家という相入れない関係になったと想像される。以上,石橋謙吾に関する新たな知見を若干記した。なお,今回の調査で見出した作品は,平成5年2月に竹喬美術館で開催予定の「石橋謙吾展」で紹介するとともに,当展図録においてこのたびの研究報告をさらに補足したいと考えている。国画創作協会の活動に関する研究において,これに参加した若手画家に関する調査がいまだ不十分であることは先に指摘したとおりであるが,それ以上に,渡欧した会員などの現地での動向に関する調査はほとんど手付かずの状態である。今後,この方面の調査研究についても,積極的に取り組んでいく所存である。-68

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