鹿島美術研究 年報第9号
98/428

⑧ 巫辛ロ子ー云只らんしよさいらんほうえいしようかいかみやてんゆう文人画の発展普及にあたって力のあった人物として,神谷天遊日本文人画の地方への伝播の研究研究者:名古屋市博物館名古屋を中心とした地方も,ら文人画をたしなむ人々が輩出した。本調査研究は,それを支えた人々の活動にとりわけ注目しておこなうことを目的としている。それを支えた人々とは,文人画の世界に憧れ,その輪の中に入っていこうとする人々に,経済的な援助を与え,あるいは本場中国の南宗画・文人画を収集し,人々=パトロンである。名古屋の地では,を営んでいた人物で,書画をとして有名である。また,名古屋の初期文人であり,日本における文人画受容にあたっての中国の画論書のスタンダードともいえる「芥子園画伝」,「倶文斎書画譜」や,「筆法記」などによって早い時期からすぐれた文人画を描いていた丹羽嘉言(1742■1786)も,おそらくこの天遊の家に出入りしていたものと推定される。一方の内田蘭渚も,薬種商を営んで財力に恵まれ,名古屋の多くの文化人と交わっていた。寛政7年(1795)に名古屋でおこなわれた大書画会「逢渥勝会」の提唱者のひとりでもある。彼は特に中林竹洞には目をかけ,成果を報告していたほどである。しかし,神谷天遊,内田蘭渚いずれもその末裔はよく分かっておらず,なお調査を継続していかなければならない。ところが,同じ頃名古屋城下を離れた嗚海には,蕪村・大雅に『十便十宜』帖を揺かせた旱諺犀篇(1742■1790)がいた。下郷家は酒造を営む豪農で,代々書画や和歌,俳句に関心を持ち,名古屋城下内外の文化人グループのサロン的な役割を果たしていた。下郷家は現在も子孫が本家といくつかの分家にわかれてのこり,今なお歴代の当主の収集した書画や書簡が収蔵されている家もある。そのうち,下郷家第十世の采蘭(1815■1900)料が伝存している。その一部は,一昨年の名古屋市博物館での「尾張の文人画」展に出品したが,あらためて精査の機会が得られた。本調査研究では,下郷家を含めて愛知県内の公的機関,個人所蔵家で約llO点の文人文人画の全国的な盛行にあわせ,18世紀の半ば過ぎかそれによって画学習の場を提供することのできた内田蘭渚(?・■1833)らの名が知られている。天遊は,質屋や醸造に所蔵し,竹洞や梅逸に画学習の場を提供した人物神谷竹洞は上京後も京都での画学習ののときに分家となった家には豊富に資浩(1710■1801), -76 -

元のページ  ../index.html#98

このブックを見る