鹿島美術研究 年報第9号
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でんぼう画関連の作品を調査,また京阪神地方の個人収集家の所蔵品から文人画を90点ほど調査した。ここでは,これらのうちから,本調査研究の目的に特に関連する資料を二,三とりあげ,若干の考察と展望を加え記したい。下郷分家には,下郷学海,伝芳(第七世,1762■1819)へあてた書筒が23通伝わっている。差出人は11名である。その内訳は,名古屋の学者はじめ,十時梅厘,宮崎笥圃,山田宮常らの画家,それに上述の神谷天遊,内田蘭渚である。いずれの手紙も文人画を仲立ちとするサークル,仲間意識といったものの考察に重要な示唆を与えてくれるものであるが,まずは,神谷天遊の書筒からみてみよう。天遊の書筒は3通がつたわっている。その内容はいずれも,下郷家からの書画の鑑定に対する返事である。天遊に関する史料の多くは,竹洞の数々の著作に言及されるところに拠るものがほとんどであるが,天遊家に中国の書圃が数多く所蔵されていたことも,竹洞の語るところによる。竹洞や梅逸は,天遊宅でこれらを臨摸し,天遊に批評を乞いながら上達していったと,竹洞は語る。天遊は圃論者も多く蔵し,中国の古人の絵画理論に精通していたとも竹洞は語る(『知命記』など)。むろん,竹洞のこの言葉には,師天遊に対する尊敬の念に起因する過褒も含まれようか`,181仕紀の後半に,名古屋の地でも相当鼠の中国画の蓄柏かあったことは認めることができよう。こころざしと,若干の造形手腕さえあれば,文人圃を学習する場は用滋されていたのである。そのコレクションか‘,どれほどのものであったのか,およそ真筆ばかりではないことは予想かつくが,『竹洞画論』の中に,「吾師(天遊)年八十,あまねく海内の画を見れども,天遊自身もそのコレクションのレベルについて,知っていたようである。手紙に現れた鑑定作品は,3通で合計11点である。手紙の記述のとおりに記すと次のようである。「聞極梅」,「周「道粛」,「秋月」,「何吾福」,「李天宝」,「林一桂」。秋月は,もちろん室町時代の画家であるか,いずれも馴染みのない名がいくつも続く。これが,当時の収集の実態というものであろう。すでに形成されており,鑑識の基礎となった天遊のコレクションについては不明であるか‘,18世紀の後半に,地方に元の名家及明の文・沈等の旧跡は見ざりしとかやいひき」と記し,と被仰下候書」,「徐元蛉花鳥」,「符験」,「南禎扇面」,「王百谷」,77 -

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