は,現存する絵画作品のそれと一致するものもしばしば見受けられ,それらの作品の制作経緯を知るための材料とも成り得る。また,これらの儒者の着賛は,儒学的教養に立脚する文人画系の画家たちの作品のみならず,狩野派系,写生画系,風俗画系などの画家たちの作品にも見受けられ,画家と儒者の交流の幅の広さを窺わせると同時に,儒者が異なる画系の画家相互の交流の媒介を務めた可能性を想起させる。さらに,他地方の画家たちが大坂を訪れた際に,彼らと儒者たちの交流を伝える着賛もあり,彼らの大坂における絵画活動や彼らと大坂画壇の画家たちの交流を明らかにすることもできよう。江戸時代後期の大坂における画家と儒者の交流を示す着賛資料から,大坂の地における画家たちの活動の具体的な事例を明らかにするとともに,それが江戸時代後期絵画史の中でいかなる意義を有するか考えてゆきたい。⑪ 国吉康雄晩年作品の意味一<祭りは終わった>以降の作品に関する研究一研究者:岡山県立美術館学芸貝宮本高明国吉の画業は,今世紀のアメリカ美術史の中で非常に重要な位置を占めているとともに,我々日本人にとってはまた特別な関心の的となる。国内でも1989年から1990年にかけて,東京都庭園美術館・岡山県立美術館・京都国立近代美術館において巡回開催された『国吉康雄展』は大きな反孵を呼んだ。しかし彼に関する詳細で実証的な美術史的研究はアメリカにおいても,日本においても本格的な成果が見られない。彼の作品に関する情報は,ニューヨークを中心としたアメリカ東部地域に比較的集中している。だが,彼の没後およそ40年を数えようとしている今日,それらがいつ散逸の憂目に合うとも限らない。そのためにも,調査に大変な困難が伴うようになるまでに,彼に関するすみやかな調査の逼迫した必要性が認められる。また,岡山県立美術館には<祭りは終わった>という彼の作品のうちでも最も重要な作品が収蔵されており,岡山市内には国吉康雄美術館も開館した。加えて彼は岡山市出石町の生まれでもあり,岡山市内には,彼に関する資料を散見することができる。つまり,17歳までの渡米以前の彼の足取りについても当地ならではの地の利があるといえる。以上から資料と作品研究両面から彼に迫る機縁がここにあるともいえる。今回の私の研究計画は国吉康雄の人と芸術についての総体的な研究の一部を成すも-100
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