ェルマンのくマリアの七つの悲しみ>祭壇を擁しているため,この彫刻家の作家研究のコンテクストで論じられるところが多かった。しかしながら,宗教改革期のイコノクラスムと第二次大戦の壊滅的な破壊を免れ,展開式祭壇8点を中心に,様式的統一性を保った木彫群を今日でも見ることのできる同聖堂の内装は,それ自体研究に価するものである。ーデルラント彫刻の受容によって築かれたことは,これまでも研究者たちによって認められている。しかしその具体的な様相に関する研究は,ベルギー,オランダの木彫作品が宗教改革期のイコノクラスムによってほとんど失われてしまったために,著し<阻害されている。この点に関して研究対象は,非常に大きな意義を有している。カルカー市は地理的・政治的・経済的にプルゴーニュ公領ネーデルラントと強く結びつけられていたために,ネーデルラント出身の作家に広く活動の場を提供していた。そのため,ニコライ聖堂内装の木彫群は,ネーデルラントとニーダーライン地方の彫刻家たちの,三世代にわたる相関を集約的に提示し,その交流に関するさまざまな面に対する研究のために,希有の機会を提供している。本研究では,同市の図書館に残された古文献を参考とし,これらの彫刻家たちの活動と交流を跡づけるとともに,作品発注者としての都市共同体の意図と,それが作品を通じてどのように実現されたかについて,考察を試みた。⑲ 平安時代宮中真言院における五大尊画像の研究研究者:同志社大学嘱託講師栗本徳子近年,京博本十二天画像の研究が活況を呈しているが,同本と同じく宮中真言院後七日御修法で用いられたと考えられるのが東寺本五大尊画像である。『東宝記』によると大治二年(1127)の東寺宝蔵火災によって真言院所用の五大尊・十二天画像が焼失し,この新写にあたって,二組の五大尊・十二天画像が製作されたことがわかる。すなわち,最初に宇治御経蔵本の御筆様本を手本としたもの(甲本)が作られたが,「疎荒」との評をうけて鳥羽院の御勘発を蒙ったため,さらに仁和寺円堂院本を手本として,再製作がおこなわれた(乙本)。東寺本五大尊・京博本十二天は,この乙本にあたると考えられる。ところで,十二世紀後半に成立したと考えられる年中行事絵巻(現15世紀後半以降に最盛期をむかえたドイツの展開式木彫祭壇の基礎が,同時代のネ-105-
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