西の丸,中奥,御座の間,下段の間,紅葉,楓,松の秋の景物図。西の丸,表,大広間,上段の間,紅白梅,竹。同,下段の間,鶴,松図。以上がスライドに撮影された資料である。このうち最後の2巻については,部屋として西の丸で重要な場所である故からか,晴川院自身が詳細に記した日記「公用日記」(同じく東京国立博物館資料館所蔵,マイクロフィルムに収められている)によると,かなり古い万治年間(1658-1661),狩野派の初代の奥絵師探幽の描いた障壁画が本丸にあったものをわざわざ写して構図の手本にしていることが判る。以上の晴川院等による江戸城障壁画の下絵の歴史的意義は次の要点にまとめられる。これ等の下絵は,最終的な完成作品こそ幕末,明治初期の数度にわたる火事により,焼失してしまったが,これ等失われた作品の手本になった作品として重要な資料である。ー,幕末とはいえ,晴川院が指導的立場にあって作り上げたこの264巻にわたる膨大な数の下絵は,更に画題,絵の様式,又各々の画題の城内の配置等を考慮に入れると,さかのぼる事二百年も前,江戸初期,狩野探幽の活躍した頃の公的な城郭又は武家の大屋敷内部の絵画装飾のプランが未だ生き続け,狩野家の画家たちによって守られていたと考えられる。今後は,名古屋城の現存する作品,又二条城に現存する襖絵等とも具体的な比較がなされる事か望ましい。下絵とはいえ,これ等の作品は画家が注文主,即ち将軍(家慶)に参考として見せ,意向を伺う為につくられたものである。だからこれ等を「伺下絵」と呼ぶのだが,それだけに,注文主一画家ー作品の関係を具体的に示す好材料であり,社会学的美術史が可能であるとすれば,この下絵類は最も適した材料といわねばならない。とくに作者の晴川院が日を追って書き留めた日記がこれ等の下絵の作製と完成品をつくる過程をくわしく物語ってくれるので好都合である。この江戸城障壁画の下絵の研究と調査と平行して今回の3ヶ月の在日期間に文献類を確認する為に下記の施設を訪問,調査をした。江戸城本丸障壁画に関する文書(御本丸御坐敷御廊下絵様之覚)を調べに仙台市博物館へ行く。文書の内容は探幽ー派による江戸城の障壁画の画題に関するもの。上智大学江上教授同行。「江戸城見取り図」を東北大学付属図書館,貴重図書館で閲覧。東北大学有賀祥-24 -
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