鹿島美術研究 年報第10号
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テーラ・レアルさまリクレアシオン室に「様々な姿勢の矮人の四点の肖像」(同番号19■22,多分プラド美術館の“フランシスコ・レスカー”,“ファン・カラバーサス”,そして1666年の時点ではアルカーサルを飾っていた“ディエゴ・デ・アセード”)。“セバスティアン・デ・モーラ”は1666年以降一貫してアルカーサルに置かれた)。第七室“王のギャラリー”に「フェリペ四世,枢機卿親王〔フェルナンド〕,皇太子バルタサールの王家人物の三点の肖像で査定できない〔王家肖像は神聖なために値段がつけられない〕」(同番号85■87。三点ともプラド所蔵の1184,1186, 1189番で,〔〕は筆者の註)。さらに,第八室に,「ベラスケスの手になる同じ大きさの三点でマルス,イソップ,メニッポスである」(同番号95■97。ーしともプラド所蔵の1208,1206, 1207番)。また今日ではエ房の協力を得てのベラスケスの大作「王家囲い場」(ロンドン,ナショナル・ギャラリー197番)もベラスケスとして,第七室(81番)を飾っていた。以上の記載は確かに1700年の当時のもので,狩猟塔の改築が終わった時にはこれらがすべて描かれてはいなかったし,たとえ何点かが描かれていたとしても,すでにこの通りに飾られていたか否かは疑問である。ただこの件に関して1636年10月24日,彼の宮廷職ならびに絵画への報酬として,ベラスケスが高額の支払いを要求している実は注目に値する。「・・・この度国王陛下に仕え,大がかりな改築がなされるトーレ・デ・ラ・パラダのために描くよう命じられた作品の支払い・・・」(VariaVelazquena, n. 66) 一方,ルーベンスおよび同派の作品の完成と発送はフェリペ四世の弟,フェルナンド親王からの書筒で明らかなように,予定より遅れ,1640年以降になって最後の分がマドリードに到済する。この事実からすれば,ベラスケス作品もその頃まで制作に要したことは十分に考えられる。ともかく,この問題は今後,各作品間での様式上の相違ともあわせて考察していきたい。さて,ベラスケスやルーベンス,またルーベンス派による200点近い作品が小さな建物を飾った様を想像してみよう。王家の肖像と矮人や道化,古代哲人たち,オウィディウスの『変身たん』による神話物語,狩猟場面,動物同士の闘い,そして風景とに多彩なテーマが並んだ。その多彩さは当時の宮廷画家で理論家,イタリア系のヴィセンツォ・カルドゥチョが考える「気晴らしのための別荘」(5)の装飾に似つかわしい構成である。しかも狩猟は単なるスポーツや娯楽に留まらず,古来王侯貴族のみに許された儀式-67 -

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