改編した第二次的な資料群によるところが大きいとされることである。仏教説話絵を考える場合にも,いくつかの新たなヒントが得られる。すなわち,『今昔物語集』の仏伝には,たとえば法華経にも語られる摩詞波閣波堤の出家諏が現れ,観無量寿経の阿闇世王説話が引用され,おそらく新たな北宋訳経を通して六度集経の馬王本生が採録されることである。これらはいずれも何らかの形で知られる画題である。仏伝が仏教説話絵の重要な柱の一つであることは明らかであり,同時に他の仏教説話と共通する基盤を持ち,それらと自在な関連を持つことも明らかである。本報告では,こうした仏伝を中心とする仏教説話絵の興味ある二三の問題点について考えることにしたい。じつはわれわれの考える,テキストの間を行き来する多様性と重層性は,すでに玉虫厨子から見られることに気がつく。④ 『夜想』にみるプレイクの水彩画技法と寓意表現の展開報告者:京都市立芸術大学助教授潮江宏―たウェストミンスター寺院の板絵の模写やアカデミーの年次展に出品した『ヨゼフの物語』連作が裏づけている。モデリングはかならずしも効果的とは言えないとしても,のびやかな線を操り,丁寧に色彩を施した水彩を仕上げる力を持っていたことは確かである。しかし,プレイクは,1780年代の後半から自分の考案した彩飾本という形式による詩作の出版に傾斜して行き,いわゆる絵画からは少々遠ざかって行った。たとえば,『数奇な物語』(1791)の版下絵においても色彩は用いず,当時通例のインク描で描いた。ただ,彩装本に伴う手彩色の部分を見ると,最初の頃は,描写目的と必然的な結びつきの乏しい漠然とした,単に色をさしただけという程度の彩色であったウィリアム・プレイクは,1767年,10歳になる年に素描学校に入り絵の手ほどきを受けた。その後7年間の銅版画師の徒弟修業を経て,さらに数力月ロイヤル・アカデミーの学校にも通った。その間,多分,油彩画の本格的な技法は学ばなかったが,鉛筆素描からペン,ペンとウォッシュの素描,そして水彩画にいたる当時の英国の標準的な素描技法は身につけたと思われる。そのことは,徒弟時代に行なっ_ 18 -
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