のに,それが段々に色彩の魅力を活かした確実な表現能力を身につけて行くようすを見ることができる。とはいえ,この技法は,それが版を用いるという点から,本来の水彩画とは違う,むしろ不透明な粘りのある絵具の効果を活かすという方向に展開して行った。この版を使った濃厚なマチェールの絵具の使用法が頂点に達した頃,問題の『夜想』の挿絵集の注文があった。プレイクは,この注文が銅版画集を最終目標にしているにもかかわらず,インク素描ではなく4■ 5色を用いた水彩画で下絵を描き,それ自体をも画集として完成させた。彼は最終の銅版画でも晩年の『ヨブ記』のような濃密な仕上がりではなく,当世風の軽い画調のものを目指しており,したがって,下絵の水彩画では,画面の一部が白地のままに残されることがしばしばだった。そのような明るい調子が当初からのねらいだったようだ。しかし,この大部の画集を詳細に見ると,そこから微妙に変化して行く作者の心理の痕跡が観察される。プレイクは,当初銅版画での完成を想定した範囲内に限定するかのように水彩画を描いていたのだが,537枚という多量の作品を1年余という比較的短時間で制作するなかで,徐々に水彩を用いることのおもしろさにのめりこんで行っているのである。たとえば,100枚目あたりからぼつぼつ白地を残さないで全面に彩色した作例が登場し始め,それが200枚前後ではその頻度が増し,後半になるとむしろ白地を残した例の方が少なくなって行く。色彩の使い方についても同じで,序盤の手探りの彩色は,途中から主調色を表に出してそれに他の色を効果的にからめるという方法が意識的に採られ,それだけでなく色数こそ変化があまりないものの塗り重ね,混色の効果はますます複雑になっている。塗り一つをとっても,段々と下絵的な粗さはなくなり,丁寧なものになる。そうした痕跡が物語るだんだん制作に打ち込んで行くさまは,1795年に大色彩版画シリーズを完成してからブレイクは意気そ喪の状態に陥ったとする旧来の仮説を斥ける。それが起こったのは,むしろ『夜想』銅版画集出版の失敗の後であろう。ともかくも,ブレイクは水彩画技法の可能性に目覚めて行った。そしてそれにたいする実験的な関心は,やがて1800年頃から制作される『聖書』連作に引き継がれるだろう。『夜想』はまた,ヤングのテクスト自体が寓意をふんだんに使う叙述法なので,ブレイクにとっていきおい寓意像の実験場ともなった。もちろん,彼は銅版画師だったので寓意図像集に接する機会は多く,彩飾本を試みるときにも,最初から自分のテクストと概念を寓意図像で説明することに取り組んでいる。もちろん,図像を規定する内-19 -
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