鹿島美術研究 年報第11号
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とんど行われていない。それは,本研究で行なうイギリス留学時代のスケッチ等が発表されなかったことが,大きな要因と考えられる。今回そのスケッチが遺族宅に存在することが分かり,初期の思想形成過程を研究する上でひじょうに重要なものであることは明白である。故に,本研究を行うことで,富本芸術の評価に新たな意味を提示し,富本研究及び,工芸研究に大きな貢献を果すことと思われる。⑱ パウル・クレー国内所蔵作品の調査研究者:慶應義塾大学文学部教授前田富士男パウル・クレーに関する研究は1980年代半ばから新しい局面を迎えた。グレーゼマーによる暫定的な『素描作品総カタログ』3巻の完結以後,『日記』新校訂版の刊行,さらに1991年から刊行が開始された完全な『作品総カタログ』の労作などにより,礎的な一次資料が整備され,また研究面でも,厳密な資料検討にもとづくヴェルクマイスター,ケルステンなどによる新しい視点からの論考が提出されたからである。『作品総カタログ』は逐年別の形式をとり,現在は1940年の作品を収録した1巻が第1冊として刊行された段階で,今後長期にわたるカタログ化作業と刊行がベルンのパウル・クレー財団によって行われる予定である。一般に画家研究において総カタログが必要不可欠な一次資料であることはいうまでもないが,とりわけクレー研究においてそれが要請されるのは,すでにふれたように,この画家の作品の多様性の特殊さにある。その多様性は,たんに画家のこまやかな想像力を映しだしているのではない。クレーの作品は小作品ながら,線描の力動性と記号性,色彩の表出性と法則性,フォルムの再現性と抽象性といった造形次元での原理的対立のみならず,意識と無意識,科学的認識と芸術的認識,杜会変革と芸術変革など,造形と反造形の本質的対立にかかわる模索の多様性を示すものにほかならないからである。総カタログ刊行の進行とともに従来ともすれば恣意的な解釈に陥りがちであった題材群,モティーフ系,枠主題に関する研究は,より厳密に行われることになろうし,新しい観点からの研究は,今日いまだ議論の尽くされていないポスト・モデルネの画像的想像力の行方に必ずや重要な照明をもたらすにちがいない。また作品来歴の調査に並行して行われる我が国のクレー受容の解明によって,美術をめぐる諸制-70 -

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