(3) 北斎と北尾政美(鍬形恙斎)作者北斎が文化九年(1812)名古屋に滞在した折に,.同地で描きためられた版下絵をもとに出版されたという経緯が初編序文に語られており,実際に本書が名古屋と江戸の書騨の共同出版物であることなどから,その事情が裏付けられている。さらにまた,このとき第一冊目に出された初編は,本来『北斎漫画』というシリーズの第一編としてではなく,一冊で完結の絵本として刊行された可能性も示唆される。ところで,この『北斎漫画』初編の構成の内容を考えたとき,作者北斎はその制作にあたって,おそらく中国清初の南画の画譜『芥子園画伝』を模範としたことが,明瞭であるように思われる。文人画家の絵手本であるこの『芥子園画伝』はすでに寛延元年(1748)には和刻本が出され,これと『北斎漫画』の相関関係については従来若干の指摘もあったが,とくに初編の内容は『芥子園画伝』の各巻の章立てを真似てつくられ,いわば内容をダイジェストにしたような構成になっていることがわかる。さらにまた,各モティーフ毎に小単位としてページ立てをする造本の体裁のみならず,樹木や家,岩石などのモティーフそのものも,そっくりそのまま抜き取られて描かれたものは少ないにせよ,その大部分が『芥子園画伝』を参考にしたものといってよい。これらのことから,『北斎漫画』初編の成立には『芥子園画伝』が非常に大きな役割を果たしたことが想像されるのである。ところでこの初編で手本とされた中国の『芥子園画伝』と大きく異なる箇所として,北斎が浮世絵師らしく江戸の庶民の百態を描き集めた部分に滸目できる。『北斎漫画』の後の方の編には,人物などの作画にあたって北斎が参考にしたとおぼしき種本の存在がすでにいくつか紹介されているが,ここで思い出されるのは北斎と同世代の絵師北尾政美(のちの鍬形慇斎)が述べたという北斎批判の言葉である。在世当時の政美は,『北斎漫画』が自作『略画式』(寛政七年刊)の二番煎じだと人に語ったと伝えられている。ところが,実際に両作を綿密に比較検討しても,影縛関係はさほど強くないように見受けられるのである。だが,『略画式』の前年に発表された政美の版刻絵本『諸職画鑑』は,北斎が『北斎漫画』の初編の作画にあたって,『略画式』以上に直接的に参考にしたことがうかがえる種本の例として,新たに登録できる重要な作例と考える。この『諸職画鑑』は絵手本,あるいは図案集としての機能を優先させた政美の画譜であるが,これと『北斎漫画』初編の両書を比較した結果,人物などのモティーフを-21
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