鹿島美術研究 年報第12号
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(4) 北斎のオリジナリティー『諸職画鑑』から数多く学び取り,それをもとに作画をおこなっていた事実が判明した。なお,北斎は初編のみならず,二編以降の作でもやはり『諸職画鑑』から想を得て作画をおこなっているようだ。以上のように,北斎がつくりあげた卑俗な絵遊びの指南書『北斎漫画』は,総体としては作者の奔放なデッサンの寄せ集めといった感があるものの,その絵手本としての制作の原点を,『芥子園画伝』の構成になぞらえた初編のなかにみてとることができる。造形の奇オである北斎は,いうまでもなく非常に豊かな表現力の持ち主であったが,ときには先行する画人たちの画譜や本画を参照し,自らの作画の手本としたことがわかっている。過去にも北斎作品における他の作品類からの図柄の借用例が報告され,今回も一部その事実が明らかとなった。だが,北斎の作例と手本とされた作例との比較をおこなってみると,結果的には北斎が彼自身の抜きん出た技量をもとに,どのように原図を自己流の文法で置き換え,変質させたのかが,かえってひときわ明瞭にわかってくるといえよう。この偉大な絵師の魔術的な魅力は,そこにこそあるといえる。② 趙孟頷の「水村図巻」における渇筆の使用について報告者:東京大学東洋文化研究所助手渇筆風の白描山水画は中国元代末の画壇の主流であるが,趙孟頻の「水村図巻」はその様式,ことに筆墨法において先駆的であり,最も重要な作例の一つとして考えられる。それと同時に,「水村図巻」は元代初期の復古主義を代表する作品の一つとしての意義も認められる。「画を作るは古意あるを貴ぶ。もし古意なければ,エみなりとも益なし」と説いた趙孟顆は南宋の水墨的な画風を衰弱とみて,北宋さらには唐代へさかのぼり,それらの時代のさまざまな画風を再現しようとした。特に白描画の復興を中心にしつつ,中国絵画の伝統的な「骨法用筆」の正統性を再確認することを目指した。こういう背景で,「水村図巻」において,五代の董源風の江南山水画の特徴を描線化した筆法と,北宋の文人画家李公麟の白描画にみられる渇筆法との二つの古典的技法の融合したような画風が作りあげられたのである。林秀薇-22-

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