た。日本の漆器は仕入れ値が高価であり,輸送の際に船のスペースをとりすぎるといった問題もあり,V.O.C.は漆器交易に消極的であった。しかし,日本製漆器は,長崎・出島の商務員が商館長(カピタン)の江戸参府の際に,京都の漆器工房に通詞や代理人を通じて注文することで,わずかながら私貿易品としてヨーロッパにもたらされた。こうした私貿易品を依頼した商館員の進取的精神が,17世紀の,いわゆる「南蛮漆器」に対して,全く別種の新しいタイプ,すなわち漆器にヨーロッパ風景や肖像図を加飾させたユニークな長崎製の作例を生み出す役割を果たしたのである。こうした作例を最初に発案した人物は,オランダ人ではなかった。1787年から88年に出島に在留したスウェーデンの医師,J.A.ストゥツェル(J.A. Stutzer)が発案した,とみずから日記の中で証言しているのである。本人が言うことだから全面的に信用はできないが,「ペテルブルク風景」と「馬上のルイ15世像」の原画を示し,日本人に漆で模写させたと記している。おそらく,この作例は,日本最初の漆による西洋風景図として位置づけられるのである。先の2点の蒔絵の板は,ストゥツェルによって,ロシアのエカテリーナII世へ献上され,1795年にクンストカーメラに下賜された。かくして,ロシアに伝えられた日本製漆器が,昨年(1993年)9月12■12月12日までベルリンのマルティン・グロピウス館で開催された「日本とヨーロッパ展」に出品され,その作品の詳細が明らかになったのである。とりわけ,「ペテルブルク風景」は,その卓越した蒔絵技術,奥行の表現などで日本人漆工の苦心のあとが見られ,作例の表裏ともに実にみごとである。そして,これとほとんど同一のヴァージョンがオランダで発見され,それを詳しく検討することで,制作地,この作例がしめる意義を考察することができた。ストゥツェルにかかわる作例の出現から,長崎製輸出漆器の解明に具体的な進展が見られたのである。京阿蘭陀中の日本京阿蘭陀とは,粟田口焼の系譜に属する軟陶で,主として染付で制作された(若干の色絵もある)デルフト風の一群の陶器である。19世紀前半期に制作されたと推定されるが,その詳細は,いまだ明らかではない。しかし,今回のリサーチによって多数の作例が見出され,刀掛,大皿,盃洗,段重を筆頭に,茶入れ,煎茶用燒炉,盃,鉢など日本的で多彩な器形が制作されたことが確認できた。これら日本の形によるデルフト風装飾は,全く日本人の創案である。京阿蘭陀は,日本人の西洋趣味にあわせた-25 -
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