が,少なくとも明治前期には存在しなかったという事実があり,そこで,いつ,どのようにして宗達・光琳を中心とする一連の画風が日本美術の典型として位置付けられるようになったかが問題となる。これはいわば美術史学史の部類に属するわけだが,日本近代美術史を担当する者としては,単なる研究史の部類に留まらず,それがいかに制作の現場に作用したかについて考察を巡らしていきたい。換言すれば,琳派という具体例を用いながら大局的には“装飾性”という概念をめぐって,近・現代日本の造形及び言説が自己(自国)認識を深めていく過程を辿るのが本研究のねらいである。美術史学界や国際美術展で“日本的”ということが取り沙汰される昨今において,むしろ斜に構えて“日本的”という枠の形成史を見つめ直すことは極めて意義深いことではないかと思われる。⑮ 狩野探幽の研究(1)一探幽縮図一研究者:静岡県立美術館この研究は,狩野探幽研究の一環である。探幽は,古画を幅広く学習したうえで,それらを総合し,工夫を加えて自身の絵画制作を進めた。この学習,総合,工夫という事柄を検証していくうえで,学習の部分をあきらかにする<探幽縮図>の研究は,欠くことができない。<探幽縮図>は,探幽が具体的にどのような古画を眼にし,る。とくに,<探幽縮図>は多くが寛文元年から延宝2年(1661-74)までのものであり,探幽晩年の作画の問題を考えるうえで重要である。第二に,<探幽縮図>は,江戸初期における貴重な「伝存絵画目録」として,中国絵画史•朝鮮絵画史・日本の近世以前の絵画史研究や,大名家等の収集についての研究など各方面から活用されている。しかし,縮図のなかには,探幽以外の狩野派画人による縮図も多く入っているので,「探幽」「探幽と同時代」「探幽以後」などに弁別してゆく必要がある(各図に捺された探幽の小印は,江戸後期の探信守道が流出させたときに捺したものと考えられており,留書の筆跡は何手かに分かれる)。その方法を見出し鑑識眼を養っていくためにも,集中的にく探幽縮図>を対象として,調査研究していきたいと考える。山下したかを具体的にしめすものだからであ-47 也
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