けてきた。その中で運慶や快慶の確実な作品,すなわち銘文や史料から作者が確定できる作品を主に扱い,そこから彼らの様式が成立してきた系譜を探る考察をしばしば行ってきた。その際,それとともに銘文や史料に欠けるために作者が確定できないものの,様式的に運慶や快慶と非常に強い関連が認められ,かつ,作品の質も極めてい作品も多く扱ってきた。ところが,これら無銘の周辺作品の研究は従来一部を除いてなされておらず,資料紹介さえも十分なされていないのが現状である。そのため,こうした作品の基礎的な調査研究の必要性を痛感し,この研究を構想したのである。・「意義」このような現状においては,まずこれら作品の基礎的な資料の集成と,在銘像との関連における彫刻史上の位置づけが急務であると考えられる。したがって,写真資料を中心とした資料の収集,文献資料の検討,基礎データの収集という作業は,今後の研究の進展の基礎となる大変重要な作業である。特に,従来あまり紹介されていない木寄などの技法面でのデータや,作者の同定に必要となってくる細部の写真などを正確に収集することは,すでに研究の進んでいる在銘像との精密な比較検討を可能とし,説得力ある結論を導き出すためには不可欠であると考えられる。以上のような作業から得られた基礎資料,ならびにそれに基づいて行なわれる鎌倉初期彫刻史における無銘作品の位置づけは,今後のさらなる研究の進展のために必要不可欠な重要資料を提供し,広く彫刻史・美術史一般の研究にも十分寄与しうる研究である。⑭ 郷土出身の画家,山内多門の歩み研究者:都城市立美術館主査(学芸員)冨迫明治時代,この街にも画家を志す若者がいた。彼らは,「中央」,画家にとっての「震源地」に活動の場を求めていった。(全国に美術館が設立されている現在では,さまざまな形で,方々に「震源地」が広がり,新たな展開も予感されるけれども…。)活動の場として,彼らは郷土を選んでいない。生まれた所,長じるまでの間に過ごした所は,彼らが画家として生きようとする場としては,彼らの選択肢になり得る所ではなかった。当時,画家を目指す彼らにとって,選択肢はただ,東京,京都であった。なぜ,今,彼らの郷里にある美術館が,彼らに執着し彼らの足跡を手繰り寄せようとするのか?公に美術館が設立されなければ,彼らは,この街でそれほど知られるこ-54
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