ともなく,私的な範疇での顕彰がなされるくらいであったろう。なぜ?あえて言うなら,「地方」という名の,彼らの郷里は,彼らと同じように何かに憧れているのではないかと思う。そして,彼らが目指した画家の名誉を,「この街が彼らを生んだのだ」というような言い方で同朋の誇りにしたいのではないか。しかし,それが何になるのか?「地方」という名の,彼らの郷里の美術館で,私は彼らの経歴を手繰り寄せようとする。他の職業と違い,画家を目指すということは特殊である。山内多門についてえば,明治時代のこの街から画家になろうと東京に出て行くのには,かなりの情熱と覚悟がなければならなかったはずである。多門を追うことは,この街の特徴と,「中央」という名の一般を知ることでもあるだろう。多門の熾烈なまでの描写はどこから来るのか?その限界は?単に郷土ゆかりの画家として彼らを顕彰するのではない。時代は彼らの頃とは大きく変わったように見えながら,なお過去のものとは言い難い共通の地盤が続いているように思える。私たちはそこに生きている。私たちは,先陣を切った多門のどこに共感し,どこに違和感を持つのか。ひいては,美術というものに携わる私たちの,時と所を踏まえた自己認識のために。⑮ 古代ギリシア美術における戦闘図像の歴史的発展研究者:跡見学園女子大学非常勤講師長田年弘古代ギリシア美術においては,様々な神話物語中の戦闘場面をアルカイック,クラシック,ヘレニズムの各時代にわたって広く見られる。こうした神話の挿し絵として成立した美術表現は,しかし歴史の経過と共に,その性格を変化させてゆく。すなわち本来純粋な神話を表していた戦闘図が,時の経過と共に次第に政治的色彩を帯びるようになり,歴史的戦闘における勝利を顕彰する性格が徐々に顕在化してゆくのである。本研究計画はこうした過程を詳細に分析記述し,跡付けることを第一の目的としている。研究計画の価値・意義として次の二点を挙げることができる。まず第一に,古代ギリシア芸術は一般に,時代と共に宗教的性格が薄れ,代わりに政治的世俗的性格が増大することが指摘されているが,本研究はこうした過程を具体的な主題領域において解明する,一つのケース・スタディーとしての価値を持つ。そして第二に,古代ギリシア美術のいわゆる政治的解釈という研究領域に対して,各モニュメントを鳥眼的にとする図像が,-55-
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