鹿島美術研究 年報第12号
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ールトの工法の存在が明確化されうるからである。一方,平面プランの綿密な調査は,この教会建築が,ロンバルディア系(ポー河上流)とエミーリア系(ポー河中・下流)の,どちらの系譜に属するかを明らかにするであろう。このことは,建築・彫刻工房の実体をいくらかでも知る手がかりになるのではないかと考えている。⑰ 覚綾草創による高野山大伝法院安置仏等の復原的考察研究者:新義真言宗総本山根来寺根来寺文化研究所〔意義と価値〕覚鐙による大伝法院の造営は,高野山上での伝法会の復興を目的とするものであった。この経営に鳥羽上皇を外護者として得たことは,彼が集大成した真言密教による大日如来密厳浄土観の造型化・具象化に大きな力となった。覚鐙は大伝法院造営によって,独自の教義の実践の場を得た。今回閲覧の機会を与えられた『大伝法院座主補任次第・大伝法院瑯内井本導等目録』(天文11年(1542)写,冊子本・醍醐寺文書104幽21号文書)の豊かな内容は,覚綾や失われた院政期の高野山上大伝法院の実態に近づき得る。〔構想理由〕密教修法は,特定の場を設定することなく宮中などで護摩壇を設置し,懸絵をめぐらせて行われたことが多い。したがって,密教寺院内の安置荘厳に関する詳しい史料は乏しい。灌頂堂を例にとれば東寺・神護寺・醍醐寺・内山永久寺など限られている(『平安時代仏教建築の研究』清水搬著)。本史料の検討によって院政期の密教仏堂内の実態が,安置仏・後壁画・柱絵•仏壇•仏具・荘厳具,さらに,所拠経典・旧蔵寺院・模刻等の記述によって総合的に把握される。ちなみに大伝法院本尊像•仏師には院覚の名が掲げられているなど,仏師・絵仏師の名を知り得るのも貴重である。また104幽21号文書前段の座主次第によれば,覚鐙草創当時を含めて中世に至るまで,仁和寺・醍醐寺と大伝法院の法脈があったことが知られる。こうした院や関連寺院とのかかわりの中で,覚鐙が構想した大伝法院の仏教美術史上にしめた位置と展開の様相を把握したい。主任研究員中川委紀子-57-

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