鹿島美術研究 年報第13号
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(4) 万国博覧会における当時の日本とフランスの染織ロッパの蚕に微粒子病という病気が伝染し,どうしても健全な蚕を他国から入手する必要があったからである。そしてもちろん,生糸と同時に日本の絹織物も輸入されていた。一方,1860年代のリヨンでは,デザイナーの中には,日本様式の織物のための下絵を描いていた者が既にいた。彼らの作品はリヨン織物美術館,リヨンの製絹業の老舗などの布見本などから確認できる。これらの図案の特徴は,全く日本の図案の模倣のものか,非常に巧妙にヨーロッパ化させたもののどちらかである。それらは,一見したところ日本の影響はほとんどわからないが,菊や燕のような日本的な動植物をテーマに陰影と空間表現を駆使しているのである。1867年のパリ万博の記録には薩摩藩の送った絹製品のデザインが非常に優れていることやそれらがフランスの製品にとって参考になるといったことが書かれており,日本製品の質を高く評価しているものとなっている。1877年にはリヨンで「回顧博覧会」と称して万博が開催されたが,日本の参加がなかったにも拘らず,日本の織物,刺繍などが収集家の出品という形式で展示された。また,リヨンの製絹業者タッシナリがこの万博において日本様式の織物を出品した。1878年のパリ万博においては,「織物と刺繍」部門において日本の織物が,常に染織技術の混合の点において抜きん出ていること,そしてそれらの製作技術がヨーロッパの作品にとって興味深いといったことが記録されている。1889年のパリ万博では日本から多くの出品があったが,高島屋の作品や西村総左衛門の大きな木と草花の図柄の刺繍などは自然のモチーフのデザインに優れているとして高く評価された。1894年には,リヨンにおいて「植民地博覧会」と称した万博が開催され,日本からの染織品の出品のほか,フランス人収集家による日本の染織品の出品もあった。それらはS・ビングとロングウェルによるもので多くの日本の布見本と獣紗が展示され,色彩の調和が素晴らしいこと,刺続が卓越していることなどが記録されている。前述したように1860年頃からは,リヨンの製絹会社の製品に日本的なものが現れていたのだが,殊にこの万博では,リヨンの出品物の中に菊や燕などの日本的なモチーフを採用しながら,一見して日本的なものとは思えないほどデザイン的に高度な作品が現れた。そのためには,デザイナーが日本の図案にいくつも目を通して,ヨーロッパのデザインとして生かしていくためにはどう応用できるか熟考した形跡が汲み取られるのである。この後,20世紀に至ってからも万博や絹織21 -

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