鹿島美術研究 年報第13号
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④ 谷文晃画『名山図譜』の研究研究者:佐賀県立博物館(佐賀県立美術館兼務)学芸員福井尚寿この研究は『名山図譜』をとおして文晟の実景描写の具体的方法を探ることを第一の目的としている。文晟は生涯をとおして実景描写を数多く試みている。たとえば寛政5年(1793)の《公余探勝図》,享和2年(1802)の《那須眺望図》,文化元年(1804)の《熊野舟行図巻》,文化12年(1815)の《彦山真景図》,文政9年(1826)の《松島暁景図》などは画歴の各時期に重要な位置をしめている。文晟は写生の重要性を認めたうえで古画の学習が不可欠であることを指摘している。文腿は山水図を最も多く制作しているが,文麗の実景描写と山水描写とは密接な関係にあり,実景描写の具体的方法を探ることは文晟の山水描写の展開をみるうえでも不可欠のことである。たとえば享和2年下絵の『名山図譜』掲載図をもとに文化12年の《彦山真景図》は制作されているが,それぞれは各時期の山水描写の特色を反映した作品となっている。また『名山図譜』の成立に関する問題の解明は,文麗の履歴,人脈,学習経緯の解明につながる。たとえば文晟は『名山図譜』の自序,松平定信『退閑雑記』,『画学大全』柴野栗山の序文などから,遅くとも26オまでに東は奥羽から西は「肥筑(肥前,肥後,筑前,筑後)」まで遊歴したと考えられている。したがって『名山図譜』の蝦夷の五つの山や日向の霧島山,薩摩の桜島は未踏地で実写ではないと推測されるし,それ以外は実写によるものかどうか,する必要がある。さらに先行する同種の画譜,淵上旭江『山水奇観』正(寛政11年/1799)・続(享和2年/1802)などとの比較によって『名山図譜』の特色がより鮮明になると思われる。⑤ 戦後前衛美術における「日本的なもの」研究者:北海道立旭川美術館学芸員中村聖今回研究対象とする表現傾向は,1994年に横浜美術館で開催されニューヨークヘ巡回した「戦後日本の前衛美術」展においては,ほぼ完全に無視されたものである。同とすればいつの時点の実写によるものか検証_ 41 -

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