鹿島美術研究 年報第13号
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みに照らして作品を捉え,かつ様々な造形指向の中で培われた特色や影響関係といった,様式の成因を検証することが出来よう。更に,同じ物語について芸能や工芸の世界における表現方法(象徴的なモチーフやその使われ方)を調べることは,鑑賞者の知識を理解するとともに,琳派を特徴づける「人の居ない物語絵」の発想源や機能について考えることに役立つと思われる。これらの研究作業は,琳派の画家が数多く制作した花丼画・花鳥画といった「人の居ない絵画」について,それぞれの作品に込められた制作意図や機能を考える糸口となるのではないかと考えている。⑰ 背振山美術の研究研究者:福岡県立美術館学芸員楠井隆志背振山は福岡県と佐賀県の県境にそびえる標高1,055mの山である。周囲には金山,雷山,そして九千部山などの高山を連ねて背振山地を形成し,さらに西北西へとその長大な尾根を延ばし,羽金山,浮嶽などを経て唐津湾にその稜線を落とす。この背振山は,古代から中世にかけて北部九州における山岳宗教のおもな拠点として繁栄した。しかし,戦国時代の混乱と破壊によって,往時の繁栄の姿は,いま山上自体にはかたちとしてほとんど遺っていない。わずかに,背振山出土の経筒に刻まれる「背振東西満山」の語句が古代背振山の繁栄を偲ばせるのみである。しかし,視野を背振山地全体におよぼすと,たとえば,浮嶽神社木彫仏三躯に代表されるように,平安仏の遺影に少なからず恵まれているだけでなく,九千部山中の万歳寺で発見された見心来復画像と以亨得謙画像,防府天満宮につたわる西油山天福寺の梵鐘など,中世美術の重要な遺品も少なくない。北部九州地方の古代文化と中世文化の形成と継承において,背振山は,英彦山や宝満山などの山岳宗教とおなじように重要で,しかも禅宗文化の受容によって別種の役割をはたしている。この調査研究は,以上のような背振山の独特な仏教文化と美術の推移を踏まえ,背振山に関わる美術資料および歴史資料を収集し,これまで断片的にしか知られていなかったその宗教活動の全体を明らかにしようとするものである。それによって北部九州の古代と中世文化史研究の理解は変わることになろう。とくに,中世背振山の宗教活動が天台密教から禅宗へと変質した形跡の認められることは,背-51 _

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