⑪ 中国絵画における対幅研究者:大和文華館学芸部係長藤田伸也対幅の絵画は特殊なものではなく,中国絵画においては基本的な表現形式であったと申請者は考えている。また対の概念は中国文化の特質であり,中国の思想や文学との密接な関わりの中で対幅は生れた絵画形式であったとの見通しを持っている。ただ現状ではそれはまだ漠然とした一般論に止まっており,それをより具体的に実証的に明らかにして行くのが,この対幅研究の当面の目的である。中国絵画は唐時代後期に水墨画が生れ,五代北宋にそれは大きく発展し急速に完成されて行った。そこで表現の多様性も整い,対幅表現も大きく発達し,完備した形に成長していったと推測されるのである。つまり対幅表現を探ることは,ある意味で絵画史全般の流れを尋ねることでもあり,中国絵画史の新たな切り口と成り得る可能性が対幅研究には存在すると考えている。ところで,対幅の研究は大別すれば,構図.描法と主題・モチーフの二つの面から行なわなければならないが,これまでの筆者・様式論を中心とする中国絵画史研究においては後者の“何が描かれているか”という問題は意外におろそかにされていた。例えば四季は如何に表現されているかという基本的な問題も体系的に論じられたことはないのである。対幅の研究は,こうした中国絵画史研究の欠落を補う意味も有する。さらに雪舟の四季山水図四幅を中国絵画の四季山水図と比較するという興味深い問題のためにも,中国の対幅表現を明らかにする必要があろう。⑫ 平安時代兜跛毘沙門天彫像の研究研究者:奈良県教育委員会文化財保存課技師神田雅兜跛毘沙門天の具体的な造像背景については不明な点が多い。一説に法華経に説く観音応現身としての信仰が言われるが,違例は観音ゆかりの寺院に集中するものの,平安時代において観音と対をなす毘沙門天の作例は未だ確認されていない。また,成島毘沙門堂像をはじめとする東北地方の作例は,東北故の北方天の信仰や,蝦夷鎮圧を目的とした勝敵神信仰がその造像背景として言われるが,都が京都にあった当時,北と言えば佐渡など日本海側を指し,胆沢地方は東国の奥の国であって北方という認-63 -
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