牧田淳-64 -識はない。また成島像は獣皮を負う新しい形式や腕に内剖をする発達した技法より10世紀より遡るとは考えにくく,その頃,胆沢地方は阿部氏の統治が進むので,一般にいわれる蝦夷鎮圧をただちに造像背景とすることは難しい。一方,兵庫達身寺にはおびただしい作例が残るが,いかなる信仰に基づくものか不明である。平安時代の兜跛毘沙門天像は個々の作品研究をより深く行う必要があり,その一方で,東北地方のように個別論に終わらない全体を見渡した上での慎重な位置付けが望まれる。兜跛形と一般形との図像の別についても,従来のような単なる形式分類に留まらない,造像意義の究明がまたれる。⑬ 浦上玉堂作品の編年について研究者:岡山県立美術館主任学芸員守安浦上玉堂の画業研究については『浦上玉堂画譜』をはじめ優れた業績が示されているが,60オ代初頭までの作品については十分な調査検討が行われ,論議が尽されたとはいい難い。この点に着目し,いわば作品の総点検に取り組んでみたい。また,60オ代中期からの作品についても描法及び落款印章の確認を徹底的に行ってみたい。まず,描法については玉堂画に特徴的な擦筆,渇筆といった筆法に加え,これまでほとんど唱えられることのなかった蔀筆(麦の穂先)の使用という面にも注目したい。なお,この商筆は玉堂の遺品の中に含まれている。さらに印章についても,同じく遺品中に見出される6顆の印を基準とし,同時に制作年次の明らかな,あるいはそれに準ずる作品から抽出した印章を基準印と定め,堂筆と信ずるに足る作品の確定に努めたいと考える。以上により,一段と細やかな制作時期の識別が可能となり,玉堂の画業へのアプローチが進展することになるとみなされる。⑭ 明時代の集帖に関する基礎的研究研究者:東京国立博物館学芸部東洋課主任研究官集帖が最も高潮期を迎えたのは,文人の文化が揚子江下流一帯で隆盛を極めた明時代であった。当時は文人の家刻の集帖が陸続と刊行され,名蹟に関する跛文を併刻し
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