鹿島美術研究 年報第13号
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1840年頃より,イギリスの海景図の主題に新たな地理的拡大一~すなわちヨーロッ⑩ ターナー晩年の「海洋画」に見られる特質について研究者:清泉女子大学講師荒川裕パの外側に広がる大洋_が見られるようになった。より具体的に言えば,ターナーの《奴隷船》(1840年)に描かれている大西洋や,彼の一連の「捕鯨」絵画(1845・46年)における南洋(あるいは北極海)である。ターナーばかりでなく,J.ウォードの《捕鯨船スワン号とイザベラ号》(1840年)やJ.W.カーマイエルの《南極のエリバス号とテラー号》(1847年)など,海景画というよりもむしろ「海洋画」と呼ぶにふさわしい作品がこの時期に数多く生まれた。このたびの調査研究の目的は,そうした主題の広がりが,なぜ19世紀半ば近くに起こったのかを探ることにある。ターナーの作品の発想の一部は,トマス・ビールの『抹香鯨の博物誌』(1839年再版)の記述に負っていることが判っている。とはいえそれ以外にも,例えば1830年代頃から大衆のあいだに広まっていく博物学の趣味や,そのひとつの結果である水族館の開設,あるいはイギリス経済の重要な一端を担う捕鯨産業や貿易航路の開発,そしてそれに伴って頻発した海難事故など,よりアクチュアルな社会的事象が「海洋画」の誕生を促したと考えられるのではないだろうか。この推測を確かめるために,本申請者は,同時代の第一次資料(新聞・雑誌等の出版物や,巷間に流布していた版画など)を詳細に検分し,当時の人々が遠い外洋について実際にどのような情報とイメージを持っていたか,そしてそれが絵画作品の上にどのように反映されているかを明らかにしていきたいと考えている。イギリス近代美術史においては,19世紀前半の「ロマン主義」と後半の「ヴィクトリア朝絵画」というふたつの局面がはっきり区分され,それぞれについて別個に研究が進められてきた。しかしながら,ひとつの時代から他への移行は,けっして唐突に行なわれるものではないだろう。今回の研究では「海洋画」の発達を手がかりに,これまで見過ごされがちであった世紀半ばの過渡期の美術に光を当てることによって,その様相の一部が解明されることを期待したい。69 -

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