鹿島美術研究 年報第14号
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③ 「パリの透明釉七宝」発表者:東京大学大学院美術史学専門分野博士課程ベンヴェヌート・チェッリーニの『金エ・彫刻論』の第4章に,透明釉七宝の技法が詳しく記されている。この著書が執筆されたのは1565年から1567年の間である。透明釉七宝の発明からおよそ200年後のことである。七宝工芸そのものの歴史は人類のガラス使用の歴史と同じくらいに古い。但し,七宝の技術が書き残された例は稀である。中世では,11世紀末か12世紀初頭にテオフィルスによって書かれた『諸技芸提要』がほぼ唯一の例である。テオフィルスからチェッリーニまで,金工の技術は,特に七宝に関しては実に多用な展開を遂げている。様式は更に隔たりが大きい。しかしながら,テオフィルスの時代の七宝の技法は後年になっても用いられたし,チェッリーニが記している技法も彼以前の時代から伝統であったものに違いあるまい。これらの数少ない技法書の内容が示すように,七宝は,金工が用いる様々な細工の方法の一つにしか過ぎない。ここで主に取り上げるのは,パリの透明釉七宝工芸の数少ない現存作品である。透明釉七宝とは,文字通り,光の透過性の高い釉薬を用いた七宝を指すが,別名浅浮き彫り七宝とも呼ばれ,特に13世紀後半に,トスカーナ地方を発祥の地とする,浅浮き彫りのほぼ全体に透明釉をかけた作品を言う。パリはアルプス以北では,ライン流域地方,イギリス,フランドルと並ぶ主要産地であった。この技法は,ガラスの着色性の関係上,地金に金か銀を用いなくてはならない。この時代,金よりは安価ではあるが,融点が低い銀を七宝に用いる上での技術的な問題が解決されたのが透明釉七宝の発展の契機となったと推測される。地金に施された浮き彫りは,七宝釉をかけられて凹凸が強調されるが,透明釉七宝では,クロワゾネ七宝やシャンルヴェ七宝のように金属の隔壁によって七宝釉が保持されることがないため,剥落しやすく,隣り合った色同士が焼成の際に混ざり合う危険も大きかった。パリの透明釉七宝の作品は,こうした技術的な課題を解決しつつ,より色数の多い,精緻な描写へと発展を見せている。14世紀末には,技術的な障害はほぼ克服し,更に多用な技術へと展開している。冒頭に挙げたチェッリーニの書は,16世紀のイタリアで活躍した芸術家の証言であるが,透明釉七宝の技法の完成点を示し,パリの透明釉七宝が具体的にどのような手順で進められたのか類推するうえでも岩三恵-22

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