鹿島美術研究 年報第14号
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貴重である。さて,パリの透明釉七宝作品の研究の障害となるのは,署名・記名のある作品が稀なことである。かつまた,1313年以降,金銀製品に産地の刻印を押すことが勅令で定められたにも関わらず,刻印のついた七宝の作例が稀である。従って,同様の状況を示すアルプス以北の各地方と産地そのものの同定が困難である場合が少なくない。多少なりとも産地作者が判明している作品との比較,それぞれの地方に特有の絵画の様式との比較によって,14世紀前半までの作例はある程度様式上の分類がなされてきている。特にヴィッペーフュルトに伝わるジャン・ド・トゥルの署名とパリの刻印の押されたカリスを装飾する七宝に描かれた人物の様式を基準とし,1320年代から1340年代に制作された作例を分類する試みは,ピュセル様式に一括りされていた作品に新たな光を投げかけている。しかし,それ以降の時代の作例に関しては,人物像の様式が多様化し,パリ作とする仮設を検証する手掛かりが少ないため,まだまだ問題は多い。14世紀後半以降の基準作としては,ルーヴル所蔵の「アンジュー公ルイ一世の鏡枠」(1379年以前)がある。数点の現存作例が似た人物表現を示すが,各々の制作地に関しては一貰した仮設がまだ出ていない。ピュセル様式の七宝の場合と同様,複数の制作地に似た様式の七宝が作られていた,と推定するほかないのが現状である。透明釉七宝の流行の初期から,ごく小さな祭壇画形の聖遺物入れまたは装身具が盛んに,作られている。初期には二連ないし三連でキリストの公生涯,受難を描いたものが多いが,装身具の形,技術が時代を経て変化してゆくのに対し,七宝による図像は地域,時代を越えて固定化する傾向を見せている。1400年前後より丸彫り七宝と組み合わせて透明釉七宝の技法が用いられている作品もごくわずかながら現存する。丸彫り七宝に関しては,概ね,パリないしはフランス製と見倣すのが慣例である。確かに,作品の規模や質から勘案して,パリよりも小さい都市でこの時代に丸彫り七宝が作られていたとは考えにくい場合もある。しかし,丸彫り七宝製の装身具にブルゴーニュ産のものがあり,技術の流布はパリやフランスに限定されるものではない。例えばアムステルダム国立美術館蔵の小祭壇画は,フランス製とされるが,透明釉七宝の様式は,寧ろフランドル地方のものである。従って,14世紀から15世紀初期にかけての七宝工芸品は,広範囲に均ー的な様式が認められるのを特色とする。その範囲とはパリを含めた北フランスとフランドル一帯-23-

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