鹿島美術研究 年報第14号
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る。彫像の場合は,画像に比して,こうした日常の礼拝の対象により適していることは明らかで,また立体であるが故に礼拝者にとっては肖像としての存在感がより強く感じられるであろう。ここで注目すべき点は,禅僧の肖像彫刻の初期の作例がしばしば像主の塔(墓)と一緒に安置されているのが判明することであり,その代表的な遺例としては興国寺・無本覚心(1207-98)像,龍吟庵・無関玄悟(普門,1212-91)像南禅院・ー山一寧(1247-1317)像が考えられる。こうした肖像と遺骨を一体化する安置法は,これらの像主が入宋僧や中国僧であることをみても中国から伝えられたものであろうが,肖像の真容性をより高める効果を有していよう。したがって,禅僧肖像彫刻は通常遺像となろうが,舟像も造像されたことも知られ,この場合は,上記の安置方法を考慮に入れると,禅宗特有の寿塔の問題も考慮する必要があろう。なお,各門派あるいは寺院にとって,その祖師像や開山像は単に礼拝の対象だけではなく,門派や寺院を維持,発展させるための象徴的な意味合いも有している。したがって,没後かなり経た時期においてもこの種の像はしばしば造像され,中には妙心寺再興期に古像の頭部を用いて造られたと思われる関山像のような特殊なものも出現してくる。また,像主の没後招かれる場合もある招来開山の肖像も同様な傾向を有し,さらに時代が下れば開山等の嗣法の師である祖師の像をも造られるようになる。ところで,銘文や文献から製作時期が明らかな南北朝期以前の像のうち,舞像あるいは遣像と判明するものは数は限られる。その多くは像主の没後間もない頃や回忌法要を機に造像が企てられた遺像であり,寿像であることが明確なものは,遺品では城寺・蔵山順空(1233-1308)像(納入品,1300年),正統院・高峰顕日像(銘文,1315年),正伝庵・明岩正因像(銘文,1365年)のみとみられ,一般にこの種の代表作にあげられる安国寺と興国寺の無本覚心の2像についてはなお検討を要するところがある。これら寿像は,上記の痔塔の問題のほか,高城寺像や正統院像のように像主の遷住に伴う造像と見られるものがある。なお,南北朝期に入ると,像主自らが開光安座供養する例まで現れることが,遺品(明岩正因像)や文献(天境霊致〔1301-81〕『無規矩集』)から知られる。さて,禅宗僧侶の肖像彫刻における写実性とは,いかなるものであろうか。これらの彫像は本来,像主の法嗣を始めとして,師の法を受け継ぐ者たちが崇敬し,礼拝するために造られた肖像である。像主の生前に造られた寿像でさえ,その没後の礼拝を念頭において造像されたと考えられる。したがって,一見写実的に見えるその風貌も,-25 _

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