程に入ってくるように思われる。またしても「鋳型」の比喩が意味をもってくるが,鋳型による塑像は医学的資料としても用いられた。ジェリコーが当時の精神科医と関係をもっていたことはつとに知られているが,人間の表面である「皮膚」をいかに表現するか,ということは,実はその表面に隠された精神をどう表現するか,ということに関わっている。それゆえ「皮膚」の表現は,当時の医学(流行した生理学,観相学等も含めて)を如実に反映しているともいえる。医学等を含めた身体観こそ,真の意味でのレアリスムを理解する要素となるのではないか,と考えられる。⑯ 日本九品来迎図史研究者:京都大学大学院文学研究科博士課程大原日本九品来迎図は,田口栄一氏以来専門的研究が無く,それすら個別的作品解説の域を出ていない現状において,それを体系的に整理することは斯界のみならず,来迎図研究の基礎として大きな意義を占める,と信ずる。但し,遺品の制約上,個別的観察のみで従来の限界を超え得ない為,文化史学的アプローチをとる,特に,日本史学において最近顕密体制論が有力学説化している今日,従来美術史学が依拠してきた井上光貞理論のシェーマを見通す作業が必要であり,この点でも価値がある,と信ずる。そうした意図を活かす為,構想としては以下の4テーマを基に研究を完成させたい。① 日本における九品来迎図の観経変からの独立,一平等院本以前遺品が皆無との前提があり,文献研究が主体になる。日本では,平安時代中期迄は,大陸と同様の造形が主流で,阿弥陀信仰も浄土変が中心,即ち,浄土得益の蓮華化生図(九品往生)が中心であった。九品来迎図が浄土変と離れ独立したのは初唐代と考えられ,善導らにより浄土変と融合された。が,従的な位置にとどまり,この典型が当麻曼荼羅である。これらが奈良時代以来の追善的信仰を背景に法華八講などを場として,平安時代を通して継承され,そこからの大画面独立がなされる過程を論ずる。② 平等院鳳凰堂と鶴林寺太子堂の九品来迎図一平安時代法華思想との関係平等院本尊後壁主題は論議がわかれるが,それは浄土変の構成と異例だからである。それはおくとしても,法華経の有名な十種供養が明示されており,鶴林寺太子堂が常行堂であったのと好対照をなしている。これに基づいて,平安法華思想と浄土教を論ずる。-57 -
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