鹿島美術研究 年報第15号
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ィアではこれらの掛物4幅はKakemoniのカテゴリーに収められた。もともと「掛物」は「巻物」の対概念として,1880年代のヨーロッパでジャポニスム批評が形成された時代に,日本絵画を代表するカテゴリーと考えられていた。ところが1897年のビエンナーレには巻物形式の作品が一点も存在しない。それに代わって,「絵画の部」の作品のほとんどが額装であった。そのため,巻物に代わる新たな「掛物」の対概念としての「Gaku」が生み出されたものと考えられる。「Gaku」という言葉は,すでにウィリアム・アンダーソンによって1886年に紹介されているが,いくつかの理由からそれが『協会カタログ』の「Gaku」のカテゴリーに直接繋がるとは考えにくい。一方,絹本絵画を額装にすることは,1870年代に欧米人に対する印象を善くするために生みだされた。いわば日本政府の対外文化政策の一環である。そして日本美術協会の事務を担当していた長沼が,これらの作品が西洋の絵画と同等の額装であるということをおそらく強調したことが,カテゴリーそのものの誕生につながったのであろう。しかしこの「Gaku」というカテゴリーは,もう一つ別の問題を含む。この分類に収められた38点のうち,絵画31点を除く7点が「器物の部」から取り込まれた刺繍や染物,押絵などであったのである。これらの作品は,日本美術協会が「器物の部」すなわち応用美術と見倣していたにも係わらず,ビエンナーレ運営委員会は純正美術である絵画と同列に並べてしまった。もちろん物質的な額装の存在が両者の混同を引き起こす大きな要因となったことは,論を侯たないであろうし,長沼が協会目録の編纂にどれほど係わったかが明らかでない以上,その非を単純にヴェネツィア側に追及することもできない。しかしながら,協会目録におけるこのカテゴリーの混乱を引き起こし,また,それを批評家の一部や一般大衆に容易に受け入れさせた原因として,当時のヨーロッパにおけるジャポニスム批評を挙げることができる。それはまず,ゴンスの『日本美術』の影聾を強く受けた『図説カタログ』の説明に見て取れる。ここで強調された純正美術と応用美術の無差別,統一性(l'unita)が,「Gaku」という,いわば混成概念を受け入れやすくした下地を作った可能性は極めて高いと言える。そして,それは多くの美術批評家達の日本美術に関する見解を規定することになったのである。-16 -

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