鹿島美術研究 年報第15号
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本の内容比較」の項目でまとめた。また,『京窟』にはない図や地名も見られ,それも別表にまとめた。表を作るに際して『京童』の項目を基本として組んだのは,屏風の短冊が一部判読不可能であったり,明らかな間違いが認められたこと,剥落の可能性もあることなどから,87の項目が確実にあげられる『京童』を基本とした。これで屏風の短冊と合せてみると『京童』にあって屏風にないもの3箇所,その逆の屏風にあるが『京童』にないものが19箇所であった。細かくは,①双方同じ場所でほぼ同構図は65箇所もあり,②一部利用したと見られるもの4箇所,③さらに全く異なる場所に人物のみ利用しているもの13箇所を数える結果となった。数字的には①のみで『京童』全挿絵の75%であり,これに②を加え,屏風にない3箇所を引いて試算すると82%となる。歴博E本の疑問点と『京童』の関係問題点の具体的検証例として,他の洛中洛外図にほとんど見られない「吹抜屋台」的描写が見られることだが,それが存在するのは,『京窟』の挿絵と同構図のものにおいてのみ見られる。洛中洛外図の定番といってもよい祇園祭の山車の描写がないことも,『京童』中に該当図が存在しないからであろう。左隻五扇ー紙目に描かれる醍醐であるが,地域的にみれば南東に位置し,右隻ーか二扇あたりが位置としては妥当と考えられるが,比叡山,鞍馬,上賀茂に近いところに描かれてある。この醍醐の描かれた位置は,理解し難い場所である。これも『京童』巻五の記述順が鞍馬・僧正谷・貰布覇・岩屋・醍醐・大原・比叡山〜と続き,屏風はこのまま醍醐を含め各地を近隣として描がいたのであろう。この他にも問題が存在するが,その多くは,屏風の存在が先行し,『京童』が後に刊行されたものと考えると,一つも解決せず,『京童』が存在し,それを何等かの形で利用したと考えることで,解決することである。これまでの検証で,屏風はかなりの部分において先行する版本である『京童』をさまざまな形で粉本としたと確定してよいと思われる。歴博E本の制作年と評価(まとめにかえて)屏風の制作年について,明らかに上限は『京童』の刊行年である明暦四年(1658)を遡ることはないと断言できよう。下限は明確には示せないが,洛中洛外図の需要などから考えて仮に十八世紀に至るとも,それを大きく下るものでもないと思われる。時代を推定しうる傍証資料を得られない状況では,十七世紀後半から十八世紀の早い時期というところが,現在示せる歴博E本の制作年代であろう。-21

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