鹿島美術研究 年報第15号
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1920年代のパリでの日本人美術家の活動について多角的,かつ実証的に研究すること校に教育課程が取り込まれた。すなわち展覧会,学校教育という二つの制度に支えられることによって,木彫は「美術」の枠内へと位置付けられる。しかし実際は,置物,人形,あるいは西洋伝来のブロンズ像との比較のなかで,木彫は常に「美術」と「エあるいは「美術品」と「置物」との境界をさまようこととなる。それゆえ近年の「美術」や「工芸」に関わる概念,制度をめぐる議論が活発となる中で,日本近代における木彫の存在は様々な問題を提起しうる領域であると言えよう。こうした中で,明治の文展開設以前から大正期にかけての平櫛の実践を追うことは,平櫛がまさに何を持って自作を「美術」の範疇に入れ込もうとしたのかを確認することであり,同時にそれは,米原雲海,山崎朝雲など明治期の木彫界を担った光雲門下の木彫家達の意識と大きく重なりあうものだろう。また彼等が揃って感化を受けた岡倉天心との関りから,天心の日本画振興にかけた施策を,より重層的に検討する材料を提供するであろう。また,それまでの「美術」に近づこうとする姿勢から一転して,平櫛晩年の制作の主眼が彩色木彫に向かったことは,木彫という日本の伝統的なジャンルが,近代社会の中で至った一つの到達点として注目に値する。このように明治,大正,昭和の長きにわたり制作活動を続けた平櫛田中の存在は,各時期における木彫界の主要な動向の当事者として,極めて重要な位置を占める。しかしながら従来の美術史研究は,近代木彫という「美術」の周辺領域を検証の対象とせず,平櫛に対しても,その依拠するテクスト解説に終始してきたこともあり,その活動の検証をおろそかにし,さらに晩年の工房制作と同一作品の複数像制作の事実を取り逃がしてきた。それゆえ本研究において,平櫛作品として生産された作品群の,詳細な全体像を描き出すことは,極めて意義深いことと確信するとともに,今後の日本近代美術に対する理論的考察についての一助となると考えている。⑦ 1920年代パリにおける日本人美術家の活動とその評価一藤田嗣治を中心に一一研究者:東京都現代美術館学芸員本研究の短期的な目的は,これまで限られた資料に基いて語られることの多かったである。これにより,重要な作家たちの滞欧期の活動の詳細を確認出来るだけでなく,林洋子-43 -

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