コンテンボラリー今日の日本では忘れ去られているが当時の日本ではかなり知られていた画家たち(長谷川路可,戸田海笛など)の足跡をたどることになる。その差異を検討することは,日本美術史研究の一助となると同時に,最終的には,他国との文化交流の際の双方の意識と実際の受容のずれを明らかにすることが期待される。申請者は現代美術を活動の中心におく美術館に勤務する関係上,他国の同時代美術の紹介の際に,世界的な同時代性か,その国固有の文化や独自の伝統のどちらに比重を置くべきか迷う機会が多いが,1920年代の日仏美術交流の中にその葛藤の根源があるように思われるのである。また,1920年代のパリではこうした日本人美術家の進出によって,19世紀後半からのジャポニスムによって形成された「理想化された日本」とその美術観が,より現実的なものへと修正されていくのであり,これにまつわる言説をたどっていくことは「ポスト・ジャポニスム時代」とも言うべき1920年代のフランスの日本美術観を浮きぼりにするであろう。⑧ 1910年代の恩地孝四郎の「抒情画」について研究者:筑波大学大学院芸術学研究科博士課程桑原規子恩地孝四郎に関する研究は,近年富に盛んとなっており,国内では『恩地孝四郎芸術論集』の出版(1992年)や「恩地孝四郎一色と形の詩人」展の開催(1994年),国外では1986年にポンビドゥセンターで開催の「前衛の日本」展に恩地の版画が出品されたことなどが挙げられる。しかし,恩地孝四郎を一人の芸術家として多角的に捉えるという試みは,ごく最近になってようやく始まったばかりで,それ以前は専ら版画家としての側面に焦点が当てられていた。本研究では以上のような研究状況を踏まえた上で,特に恩地と直接交渉があったと推察される竹久夢二,有島生馬,東郷青児,萬鉄五郎,神原泰などの画家はもとより,武者小路実篤,萩原朔太郎,北原白秋,室生犀星,山田耕搾などの文学者や音楽家との相互交流の実態を調査することにより,芸術家恩地孝四郎の未開拓部分を明らかにすることが目的である。そして,この調査を通じて,版画家,油彩画家,装禎家,人といういくつもの顔を持っていた恩地の真の姿が浮かび上がるとともに,彼が制作した抽象絵画誕生の経緯や「抒情画」の意味が明らかになると考えられる。また,1910年代は西欧の様々な美術が相次いで日本に紹介された時期であり,多く44 -
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