の洋画家たちはその影響下にあった。恩地はその中でもとりわけ西欧の新しい美術運動に敏感に反応した画家であり,彼の抽象絵画はその影響なしには成立し得なかった。恩地は果たして,西欧美術から何をどのように受容したのか。このことを文献,作品の両面から検討することにより,恩地に代表される大正期の前衛画家たちの創作活動の実際が解明できると考える。⑨ 初期土佐派の研究研究者:東京芸術大学大学院博士後期課程高岸本研究の目的は主として土佐光信出現以前の土佐派の動向を探ることにある。そのために南北朝から室町前期にかけての作品個々の位置付けの明確化と絵師の画風・制作領域の相対化を第一義としている。さらに,より巨視的な視点に立つならば,日本の絵画史,宗教史あるいは文化史一般の中世の大きな転換の様相を捉える作業と位置付けることが出来よう。すなわち,絵画史,宗教史的側面からいえば,南北朝から町前期にかけての特筆されるべき傾向として,鎌倉新仏教,とりわけ浄土教系諸宗派による高僧伝や縁起絵巻の一大普及期であったことが挙げられる。さらに絵巻物の規模の拡大傾向は,知恩院本「法然上人絵伝」のような四十八巻という浩涌な絵巻の作成,「融通念仏縁起」の版行(明徳版本,応永版本等)などからも理解される。こうした一連の拡大傾向は必然的にその受容者の裾野を広げ,美術作品にも庶民化をもたらしたといって良い。しかしこの庶民化は作品の質的低下をもたらしたことも否定できず,室町時代のやまと絵の評価が低かった最大の要因であった。しかしこうした美術作品の受容者層が広がる一方で,流布を目的として制作された版本を元に,天皇や将をはじめとする貴顕と宮廷絵所預を中心とする絵師が合作した清涼寺本「融通念仏縁起」のような豪華版作成による差別化の傾向があらわれた点は注目される。今回の研究では,初期土佐派が絵画受容の底辺が広がり続けるなかで,徐々に庶民的平明さをその画風に取り入れながら,貴顕や有力寺社とのつながりを背景にやまと絵の正統としての位置を確立していく過程を個々の作品調査に基づいて明らかにする。同時に,初期土佐派作品と数多い絵巻の転写本との質的な「差」にも着目し,層の厚い室町やまと絵の断面を考察することにより,当時の絵画史を立体的に捉えたい。45 -輝
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