鹿島美術研究 年報第15号
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考えてみたい。⑳ 太平洋画会の彫刻家たちについて研究者:成城大学大学院文学研究科博士後期課程申請者は現在,明治中期から昭和初年にかけて活躍した彫刻家新海竹太郎(1868■1927)についての調査研究を行なっているが,彼は官展を主要な作品発表の場とした一方で,日本美術院や太平洋画会などの在野団体にも所属し,広く彫刻界の発展に関わった。今回は彼が明治33年から35年にかけてのドイツ留学後,同じく彫刻家の北村四海(1871■1927)とともに参加した太平洋画会彫刻部と,彼が彫刻についての教授を行なった同研究所についての調査研究を行なう。この研究所からは,朝倉文夫や藤井浩祐,中原悌二郎,戸張孤雁,堀進二といった彫刻家たちが学び巣立っていった。彼らすべてを新海の教え子ということはできないとしても,大正期の主要な若手彫刻家たちがそこに育ち,また木彫と塑造両方の技術をもちヨーロッパでも彫刻を学んできた新海がそれを主導していたことは非常に興味深い。従来,近代日本彫刻史においては「日本の近代彫刻は荻原守衛がロダンの作風を日本に紹介した明治末年に始まる」といった言い方がなされてきた。申請者はこれまでの研究でそれ以前の彫刻にも「近代彫刻」と呼ぶにふさわしい性質がそなわっていることを指摘してきたが,また明治末年ころ日本人の彫刻観に1つの大きな変化が起きたことも事実と考えている。太平洋画会彫刻部と同研究所の初期の動向はこの一大変化と時期を同じくするものであった。教える側と教えられる側,またその双方の内部にあっても彫刻観のちがいは以前の時代にも増して大きなものであっただろうし,その一方で受け継がれたものもあったはずである。その点に見られる時代とも連動する彫刻造形のダイナミズムがおそらくは明治期に比べて彫刻家の数も増加し,作風も多様となっていった大正期の彫刻の拡がりというものに反映されているにちがいない。今回の調査研究によって大正期の彫刻の重要な出発点を,絵画との関係もふくめて明確にし,近代日本彫刻史の全体像を改めて検討していくことができると考える。-54 田中忍俯修二

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