る。幽汀という画家は,十八世紀後半に京都画壇が迎えた全盛期,「群雄割拠の時代」のいわばひとつの「沸点」のような存在であったと想像される。そして,十八世紀後半の巨匠たちによる沸騰するがごとき画壇の状況に目を奪われ,これまで十分に注目されてこなかった画家である。幽汀に限らず,近世後期の京都画壇には巨匠たちの影に隠れてしまっている画家が少なくない。彼らの多くが流派の構成要員として,巨匠たちの創始したスタイルを遵守する傾向にあったことを思えば,それもある程度仕方のないことである。しかしそこにはまた,巨匠の様式からははずれているがゆえに,その個性的で魅力的な画風が認知される機会を逸してしまったままの画家が含まれていることも事実である。巨匠たちの偉大さを認識しつつも,その前後左右に存在する様々な「予兆」や「余波」,「底流」についても同時に注目しなければ,歴史のダイナミズムを真に計測することはできないと思われる。本研究における石田幽汀という画家への注目は,そうした近世絵画史研究の更新にいささかなりとも寄与するものとなることを期している。⑰ ニコラ・プッサン作くサテュロスに担われるニンフ>について研究者:横浜美術館学芸員新畑泰秀ボナ美術館が有する<サテュロスに担われるニンフ〉の模写はもともと,19世紀フランスの画家,蒐集家,絵画教師であったレオン=ジョゼフ=フロランタン・ボナ(1833-1922)が所蔵していたもので,1902年に画家の故郷バイヨンヌ市に寄贈されたものである。ボナは1857年にローマ賞二等を獲得したアカデミーの画家であるが,一方で重要な絵画教師として活気あるアトリエを30年以上にわたって続けた。1865年からの独立したアトリエでの指導に加えて,1883年以降パリのエコール・デ・ボザールの夜間コースで教え,1888年には同研究所のアトリエ主任となり,1905年に院長となるまでこの職を続けている。彼の最もよく知られた生徒の中には,トマス・イーキンス,ギュスターヴ・カイユボット,ラウル・デュフィ,そしてアンリ・ド・トゥルーズ=ロートレックらその後のパリ画壇を担う画家たちがいた。また他にも,ムンクら北欧の画家や北アメリカの画家,さらには日本の明治初期洋画を代表する百武兼行,五姓田義松らが彼の教室に-59 -
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