号,1997年)が,カールスの風景画論の後半は,まさに科学的自然認識を風景画に具現する「大地の生命の芸術」(Erdlebenbildkunst)の理念を中心に展開しているという点で,この書の後半とフリードリヒとの関連についての研究の意義はいっそう深まったといえる。本調査研究を通じて,例えば主観的・心情的芸術という極めてロマン主義的な側面における,従来の固定的で偏ったフリードリヒ観に修正を加えると同時に,ともすると様式の展開や具体的な事実関係と切り離して,一般的な時代思潮との関連で思弁的に論じられがちなフリードリヒ研究を見直すための有益な示唆を与えたい。⑬ 広隆寺所蔵の半珈像について研究者:早稲田大学文学部助手林宝冠弥勒は日本の国宝指定第一号として,宝髯弥勒はその印象から泣き弥勒として一般に親しまれている。従来の研究によると,広隆寺は秦河勝が推古三十年に聖徳太子の追善のために建立したもので,宝冠弥勒は新羅から将来された可能性が高いという。しかし宝冠弥勒については,その形式の類似が指摘される韓国国宝八十三号半珈思惟像との関係や制作地の問題が未だ充分に検討されていない。また,宝髯弥勒についてもほぼ同大で同じ図像の宝冠弥勒が推古朝から広隆寺内に安置されていたにもかかわらず,なぜ作られたのか,さらにこの像が醸し出す異様な雰囲気はどこから由来したのかの問題については検討されていない。申請者は,広隆寺に関する一連の研究を通じて,広隆寺は蜂岡寺と秦寺という全く異なる寺院が合併したものであることを証明した。管見によると蜂岡寺と秦寺は別寺院であったから,蜂岡寺と秦寺はどこに位置していて,どのような仏像を安置していたかの問題が生じてくる。そこで,申請者は,本研究において以下のことを明らかにしたい。1)蜂岡寺の寺地は京都市北区の北野廃寺址で,秦寺の寺地は現在の広隆寺境内地であったこと多°2)蜂岡寺には宝髯弥勒,秦寺には新羅将来の宝冠弥勒が安置されていたこと。3)宝冠弥勒は,韓国国宝八十三号半珈思惟像より先行するもので,斉周様式に起源をおくこと。宝誓弥勒は北斉様式を日本風に変化させたものでほぼ同時代の山田寺仏南-65
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