鹿島美術研究 年報第15号
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@ 美術雑誌戦時統制と西洋美術することにある。かつての狩野派に関する研究は,作品,絵師,そして組織としての意義を唱える論考に大別でき,その成果を総括,再考する展覧会を実現させてきた。一方,諸大名の御用絵師に焦点を当てた研究や展覧会も充実し,全国的組織としての狩野派の実態が明らかにされつつある。橋本雅邦「木挽町画所」(『国華』第3号,明治22年)は,近世絵画史における狩野派の功罪を検証する上で最重要資料であり,先学の諸論がこれを引用し考察されている。しかし,重要な収入源となっていた諸侯との関係についての件には,注意が払われる論考が少なく,常に幕府御用絵師という立場について解釈したものであった。そこで諸侯(諸大名)と狩野派(特に奥絵師)との関係を明確にすることが,その多岐で広範な実像を解明する上で必要不可欠と考える。よって,細川家と木挽町狩野家との関係,すなわち外様大名と奥絵師との関係に着目することで,狩野派のいまだ不明瞭な活動内容を解明し,今後の狩野派研究における一助としたい。具体的な構想として文化文政期の藩主斉弦の動向に焦点を当て,狩野伊川院,晴川院,細川家に抱えられた事跡ある森派,さらには斉弦の注文に応じたとされる作品を残す文晟派に注目する。他にも斉弦の関与した作品も少なからずあり,比較的柔軟に対応していた絵師,流派と欲求を満たす藩主の相互利益を垣間見ることができよう。その事例は,他藩も同様な関係を保持していたことを示唆し,今後,諸藩に関しても調査研究していく基盤ともなる。研究者:美学会西部会「美学」編集事務局幹事本研究では,戦時下に受容された西洋美術を美術雑誌を中心に調査する。西洋美術の知識は明治開国から以前にもましてわが国に流入することとなったが,大正,昭和初期をへて西洋美術史学は,「制度化」されるにいたった。各大学で西洋美術史の講座が開設され西洋美術を海外で学んでいた邦人が帰国し,美術史の講義をしはじめたのである。そこでは西洋美術を理論的に学ぼうとする研究者が育ちつつあった。美術雑誌が戦時統制下におかれたときに記事をよせた記者たちのなかには,大学で美術史を学んだ人も少なからずいた。つまり美術雑誌戦時統制の時代は,わが国の西洋美術研究の黎明期でもあった。専門の研究分野として確立されようとした西洋美術史が,社佐々木多喜子-71 -

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